『紀貫之』刊行のお知らせ

『紀貫之 ―文学と文化の底流を求めて』を東京堂出版より上梓します。章立ては以下の通りです。

序章  現代に生きる私たちが貫之について考えるということ

第一章 貫之とその時代

第二章 貫之の歌学

第三章 貫之の企図 ―『古今和歌集』

第四章 貫之の物語 ―『後撰和歌集』

第五章 貫之の権威 ―『拾遺和歌集』

第六章 貫之の正典化

第七章 貫之の実践 ―『土佐日記』

第八章 貫之の伝記 ―『貫之集』

第九章 貫之の残響

付録  貫之の略年譜 ―および貫之をめぐる言説の年表

大上段の副題がついていますが、本書はなにも「文学とは何か、文化とは何か」というプラトンやアリストテレスも真っ青の問いに答えようと書かれたわけではありません。ただ貫之が好きな人間が、貫之がなぜおもしろいのかを説明しようとしただけの書物です。貫之がおもしろいことなど知っている、と言ってくださる方には無用の長物かもしれませんが、貫之について考えることは、とくに日本の文脈において文学と文化について考えることと密接につながっている、ということが、本書の提示したい視点なのです。したがって、古典に関心のある読者だけでなく、あらゆる文学や思想に関心のある読者に、「古典について」というよりも、「古典を通して」考える機会を提供できればと願っています。

 
 

これは言うまでもなく、古典が受験のための通過儀礼としてよりも深いところで、日本の読者に触れることがあまりにも少ない、という点にも関わっています。一般の読者であろうと研究者であろうと、とかく古典はそれをあえて読もうとするひとのほかには届きにくく、届いたところで、テクストの可能性を充分に開示することがないのです。さらには言葉や表現の実践者にとっても同じことが言え、文学や演劇の世界で半世紀も生きてきたようなひとたちでさえ、自己紹介がてら「貫之を研究している」と伝えると、かなりの確率で「いや、お恥ずかしい、その辺はちっとも知らない」という言葉が返ってくるのです。

この事実はさらに重要な問題を提起します。つまり教養のみならず、現代において創造する人々が参照する文化の集団的な記憶、いわゆるミームからも、貫之はおろか、古典文学がごっそりと抜け落ちているのです。そのように考えてみると、新派のような演劇や演芸、それに映画のような比較的新しい芸術が、辛うじて近世の姿をとどめている落語や講談、浄瑠璃や読本については下敷きにすることがある一方で、中世以前に目を向けることがきわめて少ないことに気づきます。なるほど歌舞伎や能のように、貫之をはじめとする歌人たちがそのなかで息をひそめる芸能も残ってはいるものの、それは古典という曖昧な総体のなかで、あたかも水面に揺れる影のようなものに過ぎず、彼らはテクストを通じて個別に認識される段階には遠く及ばぬまま、忘却の淵にあると言ってよいのです。戦後では、この断絶はさらに大きくなっています。そして表現から取り残されるということは、言うまでもなく、読者との邂逅の機会を持たないということであり、その邂逅によって再生産される機会を持たないということを意味します。生まれ変わることをやめたテクストには、消滅が待ち受けるだけです。

そうであるならば、もし現代に生き、近代の日本や海外の文学に、哲学に、数学に、物理学に関心のあるひとが、あるいは何かを表現をしようとするひとが、もっと古典の言葉ついて知ったらどうなるでしょうか。そこからはどれほど豊かな表現や思想が生まれてくるでしょうか。「ブルータス、お前もか」を引用できるひとが、同じように「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」を引用できたら……。その幻想のために、貫之を案内人として、本書は書かれたのです。日本の言葉と文化からは、どのような新しい世界が萌すのか。それはバルトや、ラカンや、カイヨワも抱いた問いでした。しかし日本語をすでに解する(と思われる)私たちは、彼らよりもずっと核心に近いところにいるはずなのです。

なお、鮮やかな装丁は鈴木正道氏によります。表紙には、岩佐又兵衛による禅画風の貫之図をあしらいました。本書が、典型的な歌仙絵からは見えてこない貫之像を示唆するこの図のような一冊になっていることを願うばかりです。

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