YUKIO-340

日本には伝記の伝統がない、と書いてみても、伝記作家という肩書きを持つひとも思い浮かばないから、べつだん叱正を懼れる必要はあるまい。

日本では個性がないがしろにされがちである、という紋切型の評価に突き合わせると興味深い矛盾だが、私小説は言うまでもなく、『枕草子』をはじめとする随筆や『土佐日記』のように、日本では古典いらい、自我のフィルターを通して語られる文学に事欠かない。むしろ、日本人は他人について書くことが苦手だ、とさえ言いたくなってくる。日本人は意見をはっきりと述べるのが苦手である、というもうひとつの紋切型のほうは、こうするとなんとか説明がつきそうである。

自分語りの得意な日本人が他人について書くときには、しばしば評伝という形をとる。ただの伝記ではなく、批評を兼ねた伝記という含みがあるものとすれば、やや高圧的に響く言葉でありながら、綿密な資料調査に基づいた実証的な伝記、という建設的な宣言でもあろう。そこへゆくと西洋の伝記は奔放である。ギリシャ語の「人生を描く」を語源とするbiographyは、主人公の人生を彩る様々な出来事で織られた一篇の叙事詩であって、それは神話の雄大さと、説話や訓話の俗っぽさを併せもつ。事実、あるいは事実とされることを基礎としながらも、そのうえに組み上げられるのが大言壮語の大伽藍であっても、まるで差し支えはないのである。その大伽藍に足を踏み込んで円蓋に反響する声音に何を読み解くかは、読者に一任されている。個性に重きを置き、プライバシーを固守する西洋人は、他人を通してのみ自我を開陳する。

そのような傾向に鑑みれば、日本人を主人公とした西洋人の手になる伝記には、それだけでも興趣がある。日本人によってさえ多くを語られるほどの著名な人物の伝記であればなおさらであろう。例えば、戦後を代表する作家である三島由紀夫について、ハーバード卒のエリートで、自尊心の強い翻訳家が物語ればどうなるか。それがジョン・ネイスンの Mishima: A Biography (1974)である。日本でも『三島由紀夫―ある評伝』として二年後に出版されたものの、同性愛について切り込み過ぎているという理由で遥子夫人の怒りに触れ、2000年まで絶版状態にあった。

初版表紙。死に直面するその表情は、むしろ子供のように幼く見える。

初版表紙。死に直面するその表情は、むしろ子供のように幼く見える。

裏表紙のネイスン。三島には音楽やダンスの才能が皆無で、腕力も自分ほどではなかった、とくさす。

裏表紙のネイスン。三島には音楽やダンスの才能が皆無で、腕力も自分ほどではなかった、とくさす。

この伝記に描かれる三島とはどのような存在か。煎じ詰めれば要点は二つである。すなわち、三島由紀夫は世界有数の作家であり、また人間というよりは、書く機械であった、ということである。最初の点は本書の基礎に当たる部分であり、事実の羅列によって証明される。これについては以下の段落を引けば話が早い。

 

彼は四十の小説と、十八の(いずれも豪奢に上演された)戯曲と、二十の短篇集と、ほぼ同数の評論を書いた。映画監督であり、役者であり、一流の剣術使いであり筋肉の徒であった。F-102で上空を飛び、交響楽団を指揮した。世界をぐるりと巡ること七度、ノーベル賞候補となること三度。おまけに国際的な著名人で、常に情熱的な生き方をすることで知られていた。その姿は、驚嘆すべき才能と超人的な意志の力がもたらす恩恵を、存分に味わっているかのようだった。

Nathan, John 1974. Mishima: A Biography. Boston: Little, Brown and Co., p. x、拙訳

 

だがネイスンの書物が結ぶ三島の像は、あたかもゲーテのように幸福な万能の詩人を形容するこの文章だけではとうてい測ることができない。読み進むうちに不気味なほどの着実さで更新されてゆくのは、華美な人生を歩んだはずの大作家が、幸福などとは程遠く、それどころか感情さえ摩滅したかのような、ほとんど人形のような様子で仕事に対峙する姿である。

三島は、生涯を通じて〆切を破るということがなかった。それどころか原稿には訂正の跡さえなく、すでに組まれた活版のような隙のなさがあったという。それは編集者の松本道子に「ほとんどの作家はまったくもって正常な頭で、野蛮人を演じている。僕はまったくもって正常にふるまっているが、内側は病んでいるんだ」と洩らし、夜遊びに出かけても午後十一時には必ず(「こんなところで朝まで飲んでいる奴は何者にもなれやしない」と吐き捨ててから)家にもどって仕事をはじめたという作家の性癖によく合致しているだろう。しかし次の記述を見ると、それはやはり特異な域に達していたと言わざるを得ない。

 

1953年から没年まで、三島は毎年、一本の長編戯曲を書いている。(中略)原則として、三島は連続する二か月の最後の三日間に、英語で話すときには「帝国監獄 Imperial Jail」と呼んでいた帝国ホテルに部屋をとり、そこで執筆に臨んだ。彼はまず終幕の、緞帳が降りるきっかけとなる最後の台詞を書いてしまう。それが出来ると、あとは驚くばかりの速度で三日のあいだに二幕を書き、翌月も同様に過ごし、都合六日で全四幕を書き上げる。

同書 p. 118n、拙訳

 

だがこれを特異だなどと思うのは、三島の文学の営みを人間らしいものとして捉えようとするからである。三島の頭脳のなかにはすでに言葉があった。三島という書く機械は、ただその言葉を紙に出力する。この場合、書くという行為に感情は不要である。三島に感情がない、とは言うまい。だが少なくとも、書くという段階にまで思惟を突き詰めた時点で、もはや感情が介入する余地はないのである。

この点で三島はプルーストに重なる、と仮定してみるのは乱暴だろうか。だがコルク張りの部屋で、濃厚なエスプレッソをガソリンにして、他にはろくに食事もせずに執筆を続けたプルーストが、やはりある意味で書く機械であったことは事実である。敬愛していたトーマス・マンと同じく、三島の創作態度はしばしば銀行員の姿になぞらえられてきた。しかし死へと向かってゆく仕事に精を出す銀行員など存在しない。書く機械は、動力源がお釈迦になるまでただ書くのである。生活などというものとは端から無縁であったブルジョワのプルーストにとっては、それが未完に終わるひとつの仕事であっても構わなかった。言ってみればプルーストは永久機関である。三島はもっと庶民的な機械なのだ。だからプログラムをいじってやれば、大蔵省の役人の仕事もこなすことができた。

 
その繪を見た刹那、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたへた。(中略)これが私の最初の ejaculatio であり、また、最初の不手際な・突發的な「悪習」だつた。
— 『仮面の告白』
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両者の共通点を、オナニズムの点から上書きすることもできよう。プルーストも三島も、能動的な同性愛者であったとは言い難いし、そもそも肉体的な性交渉に、さほど重きが置かれていたとは考えがたい。とくに三島の場合、それは戦後の再起動を実現させた『仮面の告白』のなかであけすけに宣言されているし、あろうことか晩年には、少年時代のオナニーの道具であった聖セバスチャンに自らが扮するという方法で、ほとんど露悪的に追認されているのである。つまり「書く機械」はその三島の聖像が掲載された『血と薔薇』創刊号でいみじくも特集された、「オナニー機械」でもあるわけだ。このような機械になりおおせた三島は、アルフレッド・ジャリの描く「超男性」のような、「セックス機械」をさえ凌駕する絶倫をほこり、あまつさえその機械に恋心を抱くような存在とは対極にある。

想像力のない現代人は、人工知能が小説を書くことになる未来について夢想することに、何か言い知れぬ興奮を覚えるらしい。だが言葉に魅入られた作家たちはとうの昔から、機械化した神に魂を奪われているのである。こうしてみるとデウス・エクス・マキナなどという慣用句も、案外と楽天的なものではない気がしてくる。