カプリ断想

ジャック・ダデルスワル=フェルサン『リリアン卿』の訳書を国書刊行会から上梓して二年が経つが、カプリ島というトポスの探索は尽きない。備忘のために、ほんの少しパン屑をこぼしておく。

フェルサンが後半生を送ったカプリ島の歴史は古い。ジェームス・マネーの『カプリ―快楽の島』(Money, James Capri: Island of Pleasure, London: Faber and Faber, 2012)によれば、カプリ島がはじめて明確に歴史書に登場するのは前一世紀、ギリシャの歴史家ストラボンの『地理書』によってである。そして紀元14年には、健康の優れなくなったアウグストゥス帝がこの島で療養を開始する。エフェベ(少年)たちと様々な遊戯に耽ったと言われる帝だが、自分のことは棚に上げて、島の気怠い空気に染まった家来に腹を立て、去り際にはこの魔性の島にApragopolis(無為の島)という渾名を与えている。

だが無為ほどやる気を起こさせるものもない。紀元26年には、アウグストゥスの継子で後継者のティベリウスが、ローマを捨てカプリに移住、島を個人の所有とした。歴史家タキトゥスによれば、外の世界から隔絶されたこの島でティベリウスは様々な悪徳に興じた。例えば方々から集められた若い男女に、目の前で(三人ずつで)交わらせ、あらゆる体位をとらせたのみならず、邸内にはそれらの指標とすべき淫らな作品が並び、医師エレファンティスの著した性愛術の指南書さえ配布されたという。さらに歴史家スエトニウスによれば、ティベリウスはまだいたいけな子供にまで破廉恥な技術を仕込んだそうだが、ここでは詳らかにしない。

時代はとんで、近代におけるカプリ島の最初の「外国人」住民は、准男爵サー・ナサニエル・ソロルド(1764年没)であるという。借金で首の回らなくなったソロルドは英国を捨て、イタリアのリヴォルノで塩漬けの鱈を売って成功する。イタリアでは金曜日には魚しか口にしないという敬虔なカトリック教徒が少なくなかったが、南部では魚を手に入れることが簡単ではなかったからである。ところが1745年から翌年にかけて、ソロルドが下宿先の薬剤師アントニーノ・カナーレの妻アンナ・デッラ・ノーチェと不倫関係に陥ったことがスキャンダルとなり、ソロルドは夫婦と共に三人でナポリへ、ついでカプリ島へ移住する。そう、要するにこの不倫は夫の同意のもとに行われていたわけだ。多くいた子供のほとんどはソロルドの胤と思われる。そのうちにカナーレが死ぬと、道徳と世間体を重んずる土地の司祭はソロルドにアンナと結婚するよう求めた。しかしソロルドは「そのうちにbye and bye」と言を左右にして逃げまわり、ついにそのまま天寿を全うしたのである。お気に入りの息子サミュエルだけは、遺言で英国の邸宅をはじめすべての財産を手に入れたが、法律上は他人であるアンナは何も相続することができず、やはり割りを食った庶子たちと共にカプリ島で余生を送った。なおこの人物のおかげで、カプリ島では何かを先延ばしにすることをBaibai dicette ‘u ‘Nglese(イギリス人は「そのうちに」と言った)と表現するようになったという。

さて十九世紀に入ると、カプリ島はすでに観光地として名を馳せている。1826年8月のある日、公証人ジュゼッペ・パガーノの自邸を改装した宿に、画家で詩人のアウグスト・コピッシュと、友人でやはり画家のエルンスト・フリースが荷を解いた。パガーノが二人の客に「海からしか入ることのできない、呪われた洞窟」の話をすると、青年たちはすっかり夢中になる。二人は早速、洞窟に詳しいと評判の漁師アンジェロを雇い、パガーノ親子と一緒に、洞窟への冒険に出た。大きなたらいと、松明用のピッチを準備し、小舟に乗り込むと、狭い入り口から泳いでなかへ入った。アンジェロがたらいに、火をつけた松明を入れてよこす。すると水面は青く、また銀色に輝き、底に透ける白い砂地から浮かび上がっているではないか。興奮状態で宿に戻ったコピッシュは、すぐに宿帳にその感想を書き付けた。これが「青の洞窟」が文明社会に「発見」された顛末である。

こうして名所まで手に入れたカプリには、有象無象の芸術家や金満家が、静謐や快楽を求めて蝟集するようになる。とくに長期滞在者はすぐに共同体を形成し、結局は都会にいたときといくらも変化のない、刺激的だが排他的なところもあるサロンを開いていた。そしてその様子は、他ならぬ彼ら自身によって、しばしば戯画化された姿で記録されているのである。

例えば1913年から7年間にわたり島に生活したスコットランド人の作家、コンプトン・マッケンジーは、島で過ごすレズビアンの姿を描いた『驚くべき女たち』(1928)の着想をここで得ているが、その年には奇しくもヴァージニア・ウルフの『オーランドー』やラドクリフ・ホールの『孤独の井戸』も発表され、文学史の一つの特異点となっている。だがここで取り上げるべきはその前年の『ウェスタの炎』(1927)であろう。この小説にマルサック伯爵という名前で登場する人物こそ、『リリアン卿』の作者フェルサンに他ならないからである。

マルサック伯爵は、自邸の改修工事の際に貯水槽が崩落し、転落した人夫が死んだというので、責任を問われて当局に逮捕されてしまう(この事故は、フェルサンの邸宅「リシス館」の工事中に実際に起こったものである)。



伯爵があちらのほうだからって、みんなでよってたかって攻撃して。医者は、あれは病気だなんて言うのよ。とんでもない偽善だわ。偽善って大嫌い。可哀想な伯爵のことが心配で、今夜は一睡もできそうもないわ!

Mackenzie, Compton Vestal Fire, London: Faber and Faber, 2009, p. 226 拙訳



などと伯爵の同性愛を引き合いに出して同情を寄せる夫人がいる一方で、逮捕されても平気の平左、ティベリウス帝はいかに偉大だったか、などとまくしたてるマルサックを冷笑する者は後を絶たない。

フェルサンがカプリ島へやって来たのは1904年のことである。翌年出版されることになる『リリアン卿』でも間接的に描かれている「黒ミサ事件」の首謀者として収監されたフェルサンは、短期間で出所したものの四面楚歌となった。罪状に部分的な誇張はあるにせよ、名門校の生徒を家に連れ込み、怪しげな儀式を行なったうえに乱暴したとなれば、社会的に抹殺されるのは半ば当然であろう。後がないフェルサンにとって、憧れの先達であるオスカー・ワイルドも愛したカプリ島は、自由の残された数少ない楽園と映ったのかもしれない。

1905年頃、リシス館の敷地でくつろぐフェルサンと恋人のニーノ

1905年頃、リシス館の敷地でくつろぐフェルサンと恋人のニーノ

今日も現存する高級ホテル、クイシサーナにひとまず投宿したフェルサンを迎えたのは、実は遠い親戚だが姉妹を演じているアメリカ出身の老嬢、ケイトとセイディー・ウォルコット=ペリー、やはりアメリカから世界を旅してカプリに流れ着いた未亡人のアリス・ツイード・アンドリュース、イギリスの退役軍人パームズ大佐、そしてスウェーデン人の医師で金に目のないアクセル・ムントなど、個性豊かな面々であった。彼らはいずれもカプリ島に惚れ込み、あるいは別荘を、あるいは定住のための土地を購入した人々である。ここにマクシム・ゴーリキーなどの作家や、ウィルヘルム・フォン・グレーデン男爵やその従兄のヴィルヘルム・プリュショーのような写真家、さらにはパウル・ヘッケルのような画家たちが、それぞれの理由から入れ替わり立ち替わりに島を訪れ、賑わいを添えていた。

だがフェルサンはカプリにも完全に溶け込んだわけではない。フェルサンの過去と「悪癖」はすぐに島の誰もが知るところとなった。むろん古代ギリシャの香りを色濃く留めたこの島を訪れる者のなかには、土地の素朴な少年の肉体を愛で、霊感を得ようとした芸術家も少なくない。だが逮捕までされながら、早速ローマ出身の少年ニーノを恋人にし、夜ごと阿片のパイプをくゆらせながら宴を繰り広げるフェルサンの評判は決してよくなかった。そこへ来てフェルサンは小説『そして炎は海に消え……』(1907)であろうことかサロンの面々の内情をあからさまに書いてしまったのだから、総すかんをくっても文句は言えなかったのである。先に挙げたマッケンジーの小説に透けて見える一種の悪意には、したがって頷けるものがあろう。

むろんフェルサンもそのような空気を察知できないはずがなく、暗鬱な表情を見せることもあった。そう証言するのは同じくカプリ島でながい時を過ごしたイギリス人の作家、ノーマン・ダグラスである。ダグラスは売れた小説こそ『南風』一作のみだが、名文家の誉れ高く、とくに紀行文の上手として知られる。フェルサンが島に来てすぐに親しくなったというダグラスは、その韜晦的な『回想―ある自伝の試み』のなかで、二人の最後の会話を記録している。


「いつからそんなに早起きになったんだ?」

「いや、君、まだ寝てないんだ」

彼は肉がつき、顔がふくれ、声も以前よりしゃがれていた。外には変わったところはない。座るよう勧めたが、部屋のなかを行ったり来たりしながら、色々と質問をしたり、最近の出来事を話したりする。そして合間合間に、ひとつまみのコカインを吸った。

「ひとつどう?」

「ありがとう、いただくよ」

「君も雪をやるとは知らなかった」

「別に決めていないだけさ」

「へっ!」と彼は言った。「僕は決めているよ」

「そうらしいね。ねえ、ジャック、君は馬鹿だな」

「それはもうだいぶ前に聞いたよ。僕が阿片をやっていた頃に」

「自分が何をしているのか、わかっているんだろうね?」

「誰よりもわかっているさ。でも生き甲斐なんてないよ―これ以外には。僕の人生はめちゃくちゃだ」

「めちゃくちゃにしているのは君じゃないか―」

「いや、世間だよ。わかるだろう?」

「わかるさ。世間なんて糞食らえだ。巻き込まれるなよ」

「ああ、友よ。少年時代に君と知り合えていたらなあ」

それは心からの叫びであったと思う。その通りだ。もし少年時代に出会っていたら、彼はいまでも生きていたかもしれない……。

Douglas, Norman Looking Back: An Autobiographical Excursion,
Kessinger Legacy Reprints, 2007, pp. 297-298 拙訳


その後間もなく、1923年11月に、フェルサンはコカインの過剰摂取で死去する。しかも死してなお、フェルサンは孤独だった。プロテスタントであったフェルサンの葬儀を教会が拒んだため、イギリス人の牧師によって埋葬が行われた。数少ない参列者の一人は、スイス出身で、やはりカプリ島にゆかりの深い前衛的な作家・建築家のジルベール・クラヴェルである。このクラヴェルの目から見たフェルサンについては、田中純『冥府の建築家―ジルベール・クラヴェル伝』(みすず書房、2012)に詳しい。

 
1923年、最晩年のフェルサン

1923年、最晩年のフェルサン

 

さてカプリの人々の無数の視線が交錯するまま、フェルサンを一応の軸として脈略もなく言葉を継いできたが、今回はこの辺で筆を擱くとしよう。島民それぞれに遍歴と浮沈があり、なおかつここに挙げた名前など氷山の一角に過ぎないのだから、カプリはまだ未踏の地と言ってもよいほどだ。なおカプリという名の語源は断定されていないという。ラテン語でカプラは雌山羊であり、ローマ人はこの島をそのように呼んだらしい。一方でギリシャ語のカプロス、すなわち亥という説も捨てがたい。島内からはこの獣の化石が出ているし、何より間もなく亥年だ。