仮面か死か

ジャン・ジュネ、沼正三、澁澤龍彦、そして三島由紀夫と、ある文学的な円環をその装幀術によって描いて見せる村上芳正の証言によれば、三島由紀夫が好んだ色は柿色、緑色、赤色であったという。歌舞伎を連想させるとりあわせである。

ところで国立劇場の最寄の半蔵門駅、歌舞伎座の最寄の東銀座駅のホームは、萌葱・柿・黒のトリコロールの意匠によって観劇気分を煽っているが、これは定式幕の色を採っている。定式幕は、昔は江戸三座でそれぞれに異なり、市村座は萌黄の代わりに白を用い、中村座は白・柿・黒であった。現在の三色は森田座の名残によるところが大きい。三島の好んだ三色は、さしずめ三島座の定式幕ということになろうか。

三島が歌舞伎や能を愛したことはつとに有名である。愛したというのは語弊があるかもしれない。三島の幼少年期を支配した祖母の趣味もあり、観劇は三島にとって義務のようなものであった。自分の意思とは半ば無関係に、三島の魂は舞台上に植えつけられてしまったと言ってもよい。小説家としての三島の特質が構築美にあったことも、当然この生い立ちと無関係ではない。それどころかより直截に、三島は事実多くの芝居をものし、その世界を知り尽くした人でなければ不可能な仕方で、歌舞伎や能を現代化している。そもそも、作家もまた役者である。この方程式が三島以上にしっくり来る例も稀であろう。

川端康成の「伊豆の踊子」などにもその残り香があるが、本来、演劇をはじめとする芸能は共同体から疎外される宿命を帯びている。外へと弾き出されたものが、遊興や催事の折にはふたたびび内へと戻ってきて、いったん秩序を揺るがすことで、かえって長期的な秩序の安定を助成する。洋の東西を問わず、これが芸能のいわゆるカーニバル性の本質であろう。

しかし近代化によって二つの世界の境界はきわめて曖昧になった。外のものが何食わぬ顔で内側に入り込んできたかと思うと、内側の世界の人間がまるで外側の世界の人間のようにふるまったりする。例えば黒人風の踊りであるチャールストンが一斉を風靡した1920年代のある日、ロンドンの司教は踊り狂う人々に向けてこう叫んだという。「腐っている! 臭う! 窓を開けなさい!」だが境界が曖昧になった近代に、もはや窓は存在しないのだ。

チャールストンに興じる男女

チャールストンに興じる男女

そして役者たちも、新しい世界では市民として生きるようになった。人々を熱狂させることのできる彼らは、あたかも王者のような権威を与えられることもあった。「即ち彼らは、嘗ては社会とその掟との外にある非人でしたが、やがて非人たることをやめ、市民となって以来、全く、堕落してしまった」と嘆くのは、ペトルス・ボレル『シャンパヴェール悖徳物語』の登場人物の一人である。

だが役者の耳にそんな批判の声は届かない。彼らは仮面をかぶっているからである。古代ギリシャの演劇では、役者は頭部全体を覆う、ほとんど滑稽なほどの大きさの仮面をかぶった。その仮面は役者の新たな人格であると共に、現実世界と神話世界との境界であった。だが能になると、仮面はこんどは不自然なほどに小さい。面からはみだす顔の輪郭は、舞台の上の世界が幻に過ぎないことを、半ば冷笑的に肯定しているようにも思える。そして顔に直接に化粧を施す歌舞伎となると、それはもう役者と観客の交換が目前に迫っていることを警告しているようにさえ感じられる。男ぶりや気質を強調する隈取は、色と艶を強調する遊女の化粧ともはや選ぶところがない。

そして現在では役者も素顔である。だがそれは素顔に見えるだけのことで、つまり私たちと役者のあいだには何の差異もない。私たちも素顔という仮面をかぶるからだ。

 

「仮面の告白」という拙作を読んだ方はご承知と思うが、私は病弱な少年時代から、自分が、生、活力、エネルギー、夏の日光、等々から決定的に、あるいは宿命的に隔てられていると思い込んできた。この隔絶感が私の文学的出発点になった。

「ボクシングと小説」

 

三島自身によるこの危険なほど率直な「告白」は、三島が作家と作品を隔てる境界を、懸命に取っ払おうとしていたことを示唆しているのだろうか。少なくとも三島の精神が、その境界という刃によって切り裂かれていたことは間違いない。晩年の三島は「行為」に取り憑かれていた。そのときの三島には、作家にとっては書くことこそが「行為」であるということが見えなくなっていた。

映画「憂国」(1966)より

映画「憂国」(1966)より

自身の短編「憂国」を映画化したことは、三島にとってすでに意識していた人生の幕引きへの予行演習であったのかもしれない。ここでふと気づくのは、主人公の武山中尉の顎が割れているように見えることである。三島本人の顎は割れていないから、もしこれがメーキャップだとすれば、それは三島が彼自身の最も肉体的な仕事ともいえる「憂国」の役者として、最後まで素顔をさらすことを拒絶したことを意味しているのだろうか。三島がかつて「ムーっとしている」と表現したアメリカ的な肉体を強力に表象するような割れた顎のメーキャップは、あるいは比較神話学における兎口のようなものなのかもしれない。三島の仮面はそこから裏返って、怪談じみた能面のように彼の素顔を剥ぎとり、彼を窒息させてしまったのだろうか。