くりかえしのくりかえし

このところ、時間の循環を取り扱う作品が目につく。

時間移動、あるいは時間旅行という主題は決して新しいものではない。象徴的とも言える作品はご存知H・G・ウェルズの『タイム・マシン』(1895)だが、実は先立つこと七年、ウェルズはすでに The Chronic Argonauts という短編で時間旅行を描いている。『時間の航海者』などと紹介されることのあるこの作品の題は、ギリシャ神話で金羊毛を求め、巨大な船「アルゴー」を駆って旅に出たイアソンの物語にちなんでいる。つまり時間移動を航海に例えているわけだが、それは裏を返せば時間を超えるという未曾有の旅程に、長距離移動の手段である船のパラダイムを適用しているに過ぎないわけである。それに対して『タイム・マシン』はまったく新しい移動手段、すなわち「時の機械」を登場させ、それまでの移動の概念をさえ覆した。ここにウェルズの『タイム・マシン』が、時間移動という主題を初めて提出したわけではないにもかかわらず、金字塔たりえている理由がある。

ヨハネス・ヘヴェリウスによる「アルゴー座」の天体図(1690)

ヨハネス・ヘヴェリウスによる「アルゴー座」の天体図(1690)

その後も時間移動を扱った作品は枚挙に暇がないが、時間の循環を前面に出したものとしてまず思い浮かぶのは映画「恋はデジャ・ブ」(1993)である。春の到来を占う祭りである「グラウンドホッグデー」の取材にやってきた気象予報士のフィルは、説明のつかない理由によって同じ一日を際限なく繰り返す羽目に陥る。フィルだけには「前日」の記憶が残るため、彼はやがて町中の人間が抱える問題に精通し、弾いたことのなかったピアノも一流の腕前になる。それでも出口の見えないループに絶望していたフィルを最終的に救ったのは仕事仲間であるリタとの恋の成就であった。つまりこの映画は時間の循環のなかで主人公が成長するという、教養小説のような構造を持っているわけである。

しかし時間のループは必ずしも建設的な牢獄ではない。とくに日本のアニメやライトノベルに多く見られるのは、無間地獄的な時間の循環である。桜坂洋による『All You Need is Kill』は異星人の生物兵器との戦いで死んでは目覚める主人公の物語だが、ここでのループはひたすら宿命の深まりをもたらすだけで、救いには結びつかない。トム・クルーズの主演によって映画化(2014)された際には、結末はハリウッドの基準に合わせてより勧善懲悪型に改められている。注目すべき日本の作品としては他に連載中の漫画「僕だけがいない街」もあるが、過去の連続児童殺害事件の解決を目的とする時間のループが持ちうる意味については、作品の完結を待つ必要があるだろう。

ループという言葉が示す通り、円環は閉じられなければならない。そのことを端的に示している映画は「ルーパー」(2012)であろう。この映画では、法の目を逃れての殺人や屍体遺棄が不可能になった未来世界から送り込まれてくる被害者を始末する、ルーパーと呼ばれる殺し屋たちが描かれる。彼らは引退すると自らも過去に送り込まれ、過去の自分に殺されなければならないという宿命を負っている。この引退の儀式が、作中でまさしく「円環を閉じる」と呼ばれているのだ。

ところでこのように時間の循環を描く作品が多くあることの意味については、少なからぬ議論がある。とくに日本の場合には、それがゲーム的な「やり直しのきく」世界であることが指摘され、そこに現代人の幼稚さや弱さを見る向きもあるが、それをここで論じる必要はあるまい。重要なのはむしろ、このような主題が「生きること」と「時間」との関係を見つめ直すきっかけになるということだ。

したがって時間の循環という具体的な現象がなくても、同様の問いを立てることは当然可能である。例えばコーエン兄弟の「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」(2013)では、うだつの上がらないフォーク歌手の足掻きが描かれているが、物語は主人公が眠りにつくたびに清算されるような構造になっているため、観客はそのうちに時間軸を見失ってしまう。その効果もあって、どん底の状態から出発する主人公の将来に希望を抱いていた観客は、結末で例外なく裏切られることになるのである。

これまでの例からもわかるように、時間からの逸脱を描く媒体としては、視覚的なもののほうが適しているように思われることは事実である。しかしもとより言葉に還元されない表現はないのだから、最後に再び文学から例をとることにしよう。

それがジョン・ファウルズの『フランス軍中尉の女』(1969)である。フランス海軍の中尉に捨てられた情夫として後ろ指をさされているサラに、孤児だが莫大な遺産を継ぐ身であるチャールズが出会う。チャールズには婚約者がいるが、サラとの仲は徐々に深まってゆく。そして最後には三つの結末が用意され、読者は語り手とともに、そのどれか一つを選ぶよう促されるのである。

ヴィクトリア朝文学のパロディに満ちた技巧派の『フランス軍中尉の女』ならずとも、あらゆる物語は、結局のところ完全には閉じられることのない円環なのだ。物語は読み返され、再訪されるたびに姿を変える。それは私たちが変化しているからであり、その変化をもたらすものこそ時間なのだろう。アウグスティヌスからポール・リクールまで、人類は時間を相手に問い続けてきた。歴史を振り返れば、すくなくとも「大きな時間」が循環するものであることは明らかだ。流行は周期的であり、おなじ過ちが何度となく犯される。だが私たちひとりひとりの「小さな時間」はどうだろうか。確かに実に多くの物事を、私たちは以前から知っていた気がする。せめてそれが平面的な輪ではなく、螺旋を描いていることを祈ろう。