茶卓本を排す

Coffee table book という語がある。訳せば茶卓本だろうか。居間のテーブルに置かれる大型の上製本、というのがとりあえずの定義だが、要は写真集や美術書の類である。主人の趣味を披歴するのと同時に、客人との話題に困ったときに接ぎ穂を見つける役にも立つ。総じて視覚的なもので、長い文章のあるものは適さない。またあまり専門的でも客人を困惑させてしまうから、概説的なものが望ましい。そんなわけだから、極論すれば茶卓本が良書を兼ねることは稀であって、皮相な本を揶揄する語として使われることもある。

この語を広めたのは、アメリカの自然保護団体シエラ・クラブが発行した一連の写真集であったと言われる。美しい自然の大判の写真と、そこに添えられた短い文章は、いかにも茶卓本の用途にぴったりである。だが茶卓本という概念の淵源はどうやらルネサンス時代の欧州にあるらしい。有名な『エセー』のなかでモンテーニュは、「私の書物がご婦人方のありふれた小道具として、居間の窓辺に置かれてしまうのは嘆かわしいことだ」と書き残している(「ウェルギリウスの詩句について」)。

「理想的」な茶卓本としての写真集

「理想的」な茶卓本としての写真集

なるほど書物の重要性が大きい時代であればなおさら、精読されるのではなく飾られる宿命に生れついた書物は不憫であろう。だが精読されることだけが目的であるのなら、多くの書物が美しいことは説明がつかない。書物は知の象徴であったが、それは同時に富と権力の象徴でもあり、美をまとうときに最も説得力を持つ。皮肉な事実かもしれないが、知とも富とも権力とも無縁の人々でも、やすやすと美を解するのである。美は共通言語なのだ。

そう考えてみれば、図書館が往々にして不必要に(!)美しいのも納得がゆく。日本では「幻想図書館」というやや媚びのある名前で知られているリオ・デ・ジャネイロの王立ポルトガル図書館も、その好個の例であろう。新天地ブラジルで地歩を固めつつあったポルトガルの豪商たちが思い立ったのは故国の美しい書物を集めた広壮な図書館を建てることであった。そしてポルトガル王家に出自を持つブラジル皇帝のお墨付きを得てこの図書館が落成したとき、それは市内で最も荘厳というだけでなく、ただひとつ鉄の骨組みを持つ近代的な建築物となったのである。

王立ポルトガル図書館の閲覧室

王立ポルトガル図書館の閲覧室

だが図書館は居間からするとずいぶんな飛躍である。話を個人宅に戻すと、例えばダンディズムの生き字引であったボー・ブランメルは、書棚の中央に愛蔵の書物を並べ、それらの書物の登場人物を描いた肖像画を、そばの壁に飾ったという。このときブランメルの部屋は一冊の書物として客人に提示されるのであり、その書物の主人公は、もはや壁にかかった画中の人物ではなく、部屋の主たるブランメルそのひとなのである。

とはいえ誰もがブランメルのように次から次へと客を招くわけではない。できれば一生涯、自分の生活する空間を他人に見られたくないと思う人も少なくないだろう。そこで秘蔵される書物というものが必要になる。

書棚を見ればそのひとのことがわかると豪語する者もいれば、誰に見られても恥ずかしくない本の選び方について講釈を垂れる者もいる。茶卓本が入り込んでくるのはこうした隙間である。たとえもっぱら茶卓にあっても、決して茶卓本ではない本、気心の知れぬ客人などにはとうてい理解できない本、私の世界の縮図たる本。そんなものこそ、いつも手近に置いておきたい。それが秘蔵の妙味というものであろう。