アイロニーの装置

芸術は自然を模倣する、という命題は西洋における思惟のはじめにふりかかった呪いのようなものである。模倣は言うまでもなくアリストテレース『詩学』にあるミーメーシスである。詩人は自然を模倣し、再現する。人は本来的に再現を好むものであり、死のように恐ろしく、取り返しのつかぬものには、実際に触れずとも、再現を経由することで一種の経験を積み、学ぶことができる。

ところが芸術は技術をも内包している。技術が自然を模倣すると言うとき、そこには、自然の側にも合理的な目的があり、そこへたどり着くための計算された生成過程が存在していることが示唆される。だからオスカー・ワイルドが The Decay of Lying(1891)のなかで述べる以下の言葉は、「自然は芸術を模倣する」と言いながら、実は逆説ではない。

いま、ひとが霧を見るのは、霧がそこにあるからではなく、詩人や画家たちがその神秘的で美しい効果を人々に教えたからだ。

芸術による自然の模倣は、技術による自然の認識として、ギリシャ以来こびりついている。その悲喜劇をすこし遠巻きに見つめる余裕を授けてくれるのが、例えば landscape agate のような自然界からの贈り物なのである。これらは瑪瑙の一種であるが、表面を切断することにより偶発的に現れる風景画は、自然による自然の模倣でありながら、驚くほどに人為的な自然の模倣とも似ている。

「遊び」や「夢」を通して権威的な哲学の秩序に風穴をあけようと試みた思想家ロジェ・カイヨワも、このふしぎな鉱物に関心を示していた。石が人間のように絵を描くとはなんということだろう。それも同じ自然界に属する草花を描くとは、実に奇妙な出来事と言わなければならない。しかしながらロマンチックな驚異の波が引くと同時に、それは決して自然界が差し出すパロディではないのだということが了解される。瑪瑙の切断面に現れる模様は鉱物の内包物がもたらす偶然でしかないし、実に退屈な話だが、そもそも鉱物は絵を描かないからである。

もしある芸術家が、これらの鉱物の一つに「植物画」という題をつけて、レディ・メイド作品として発表したらどうだろう。そのときには、確かにパロディが生れると言えるだろう。ただしこの場合パロディは、鉱物が人間のように植物の絵を描いたという点に関係するのではなくて、自然現象をあたかも「鉱物が人間の真似をした」かのように捉える観客の反応に関係しているのである。その作品は「人間は絵を描く」という事実のパロディとして「(絵を描くはずのない)鉱物が絵を描く」という現象を提出し、それを衝撃的な出来事として受け入れてしまう人間の性質を笑う。

だから landscape agate のような自然界の悪戯は、パロディと言うよりもアイロニー的な装置として存在していると言ったほうが正確だろう。これに驚く人々の世界観も、作品として提出する芸術家も、それを相対化して論じる人間も、まとめて弁証法の呪縛にがんじがらめである。これらの瑪瑙は、あの有名なプラトンの洞窟から掘り出されたのに違いない。

アルチンボルド「春」1563

アルチンボルド「春」1563

アルチンボルド「風」1566

アルチンボルド「風」1566

国芳「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」 1847

国芳「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」 1847

芳藤「子猫が寄り集まって親猫になる」1850頃

芳藤「子猫が寄り集まって親猫になる」1850頃

だからいっそ不可能を抱きとめて、自然による自然の模倣を絵画として、つまり技術によって恣意的に再現したとしても、そこに現れるのは負け惜しみよりもむしろ潔い想像力なのである。イタリアのマニエリスムの先駆者と言われるアルチンボルドや、歌川国芳、歌川芳藤などの浮世絵師が残した一連の「騙し絵」を挙げれば充分だろう。例えばアルチンボルドならば、「人物の肖像画」は「植物」や「鳥類」によって模倣される。しかし植物や鳥類が本来このような姿で組み合わさることはないし、万が一そのようなことが起きたとしても、植物や鳥類に模倣の意識はない。そこに奇跡を見出すのは人間だけである。

したがって、これらの絵画もまたアイロニーの装置として鋭い冷笑を私たちに向けるのであるが、今度はそれを作った相手も人間であるから、どうやら痛み分けということで納得ができる。