銀幕のバベル

レイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』(1953)とその映画化であるフランソワ・トリュフォー監督の「華氏451」(1966)にはいくつかの変更点がある。例えば原作の登場人物の一部が姿を消し、その役割を映画では別の登場人物が担わされている点、原作では女性不在のまま進むいくつかの重要な場面に、映画版では女性が登場する点、などである。後者については、映画が出た六十年代により顕在化していた社会と女性の問題が反映されている、と考える批評家もいる。いずれにせよ、小説の愛読者にとっても映画版のファンにとっても、いちばん印象深いのは結末に近い以下の場面ではないだろうか。

主人公のモンターグは、読書の禁止された世界にあって本を燃やすファイアマン(もちろん、本来は消防士を意味する)である。だが当局のやり方に疑問を感じたモンターグは、やがて焼却すべき本を着服することに密かな楽しみを見出し、ついには反体制側の人間として追われる身になる。すんでのところで逃れた彼は、森に暮らす「本の人々」を尋ね当てる。彼らは本が完全に消滅する時代に備えて、それぞれ一冊の書物を暗記しているのである。

森のなかで書物を暗記する人々

森のなかで書物を暗記する人々

原作者のブラッドベリは、この小説をテレビ時代への警鐘として書いたと述べている。しかし小説は同時に、思想の統制や焚書といった、過去に実際に起こり、今後も起こりうる出来事に対する批判としても読み取れる。(この場合、小説はオーウェルの『一九八四年』にも似てくる。)一方、いわゆるSFに対する嫌悪を隠そうとしなかったトリュフォーがこの小説をあえて映画化したのは、書物の力を再認識させる作品として原作を読んだからと思われる。映画版でモンターグが「本の人々」の仲間入りをし、暗記することに決めるのはエドガー・アラン・ポーの作品集である。それは想像力と神秘の希求が、人間の独立にとって最後の砦だからであろう。

このような、書物が世界を規定するという図式は、ブラッドベリの作品から半世紀以上を経たいまでは時代遅れなのだろうか? クリストファー・ノーラン監督の「インターステラー」(2014)を見る限り、どうもそうでもないらしい。

三時間近い濃密な映像叙事詩である「インターステラー」は、キューブリックの「2001年宇宙の旅」(1968)へのオマージュにも満ちているが、映画の結末に至って独自の世界観を展開している。人類を存続させるため、クーパーら宇宙飛行士たちは冷凍睡眠を繰り返しながら、人間が生活できる環境を持つ惑星を探す旅に出る。しかし計画は失敗に終わり、せめて重力の謎を解くことに最後の望みをかけたクーパーは、ブラックホールのなかへ飛び込んでゆく。

ブラックホール内のテサラクト空間。図書館を彷彿とさせる。

ブラックホール内のテサラクト空間。図書館を彷彿とさせる。

その中に、どうやら五次元とおぼしい空間が広がっている。だがそれは荒涼とした空虚ではなく、無限の本棚が連なる場所であった。そしてクーパーは、その本棚の一つが自宅の本棚と繋がっていることに気づく。それは娘の寝室の本棚で、娘は幼い頃から、その本棚からポルターガイストのように本が飛び出すことを訴えていたのだ。いまクーパーの目の前にいるのも、まさに幼い時分の娘マーフである。つまりかつて本棚から本を落としていたのは、数十年後のクーパーその人であった。クーパーは改めて重力のデータを、書物の落下パターンを利用して娘に送信する。娘はやがてメッセージを解き、大人になるとついにスペースコロニーの建設に成功するのである。

このいささか突飛な物語に観客が納得するかどうかは措くとして、肝心なのは人類の認識の究極に位置するはずの五次元という世界が、典型的な知の象徴である書物によって表現されているということである。それは、人間が結局は書物を超越できないということを意味するに過ぎないのだろうか。あるいは、より建設的な解釈も可能であろう。つまり、書物は宇宙よりも広く、人類はこれから先も、何度でも書物へと立ち返ってゆくことになる、という解釈である。この主題はむしろ半世紀前にブラッドベリとトリュフォーによって提出されたときよりも、重みを増しているようにさえ思われる。

だがここでこれ以上、冗漫な思索をめぐらせても仕方がない。代わりにロベルト・ボラーニョの遺作『2666』(白水社、2012)から、謎めいた放浪の作家アルチンボルディの言葉を引いておこう。四次元は音楽のみによって表現しうる、と主張する指揮者に向けられた台詞である。

「いっさいは焼かれた本ですよ、指揮者さん。音楽も、十次元も、四次元も、揺り籠も、弾丸とライフルの製造も、西部の小説も− いっさいは焼かれた本なんです」