書物の骸は燐光に包まれて

この年末年始に、完結したばかりの雑誌「アイデア」三部作(誠文堂新光社)を暖房の効いた部屋でぬくぬくとめくりながら、汗牛充棟の書庫の夢に洩らす白い吐息で窓を曇らせていたのは、何も僕ひとりではないだろう。むろん三部作というのは、354号「日本オルタナ出版史 1923-1945 ほんとうに美しい本」、367号「日本オルタナ文学誌 1945-1969 戦後・活字・韻律」、そして368号「日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン」からなる、いわゆる「日本オルタナ出版史」三部作のことである。

三部作は、ひとつの実現しなかった展覧会である。触り心地のよい、そしてうっかりすると指を切りそうな光沢のある本文用紙に鮮やかに陳列された近現代日本の書物の系譜は、たちまちガラスケースの並んだ展示室を読者の脳裏に浮かばせるし、いくら近づいても咎められない書影に鼻を近づけて苔むした紙の匂いをかごうとするうちに、私たちはいつの間にかビブリオフィルの、いやビブリオフォリー bibliofolie の、森をうろつくことになる。

まだ手に取っていない人のために内容を示すと、このようなものだ。「アイデア」354号は、判型を定義するところから始まり、宮武外骨という「抵抗」の権化から、昭森社を興し、戦後派文学者の溜まり場たる酒場「らんぼお」の主人でもあった「神保町のバルザック」こと森谷均まで。次いで367号は、まず活字のサイズについて蘊蓄を授けてから、文庫本と個人全集の隆盛という、いわば本の所有をめぐる変革を照らし出すと、そこにユリイカの伊達得夫、思潮社の小田久郎が登場し、前号の森谷と合わせて出版三銃士がそろいぶみである。出版人、いやむしろ、執拗に本を愛した人々の点鬼簿は、そこから澁澤龍彦やその周辺の、ガラス張りのアングラとでもいうべき一連の営為の成果を世に問うた、矢牧一宏・内藤三津子にまで連なってゆく。しんがりの368号は、もはや昭和がほころんでいた時代に、それでも肥沃であり続けた退廃的な書物の畑から、吉岡実や清水康雄といった詩を書き本をつくる人たち、そしていまなお装幀家として第一線にあり、先達の旅立った桃源郷に航路を定めつつある中島かほるや望月玲子らの筆の跡を提示する。

出版史をたどり、出版人たちの美学の反照に酔うという表向きの愉しみもさることながら、書物とは何か、ひいては書くとは何かという命題に、これほど肉薄する書物も少ないだろう。しかもその書物が「雑誌」であるという事実が、なおさら興味をそそる。なるほど「アイデア」は三千円近い定価であり、標榜する「デザイン誌」にふさわしい紙と体裁であり、より一般的な雑誌を雑誌たらしめている迷宮、つまり広告もないのだから、むしろムックと呼ぶべきなのかもしれない。しかしそれでも雑誌に違いないと思うのは、三部作それぞれの号で組まれているその他の特集や記事の存在である。

例えば354号では、かつてコミックマーケットの代表をつとめ、明治大学付属の記念図書館にその膨大な蔵書を託した米澤嘉博が紹介されている。そして連続する367号と368号では、「日本のZINEについて知ってることすべて」という連載が起動している。発行部数がものをいう薄利多売の漫画雑誌にしても、資本の後ろ盾を持たない私的な雑誌のZINEにしても、「オルタナ出版史」の特集を目当てに「アイデア」を手に取った読者にとって、これらの記事は一見、必ずしも魅力的には映らないかもしれない。だが何か新しい文化の胎動のように謳われるZINEにしても、それは西洋の政治的パンフレットの歴史に明らかに結びついているし、二十世紀に入ってからは、例えばSF系のパルプ雑誌がファンの交流の場としてこのような媒体を利用したり、1970年代にはパンクに染まった若者たちが自らの主義主張を、普及しはじめたばかりのコピー機で量産して配布したりしていた。つまりそこにあるのはガリ版刷りの同人誌から数寄を凝らした私家版詩集へとのぼりつめた、「オルタナ出版史」の登場人物たちといくらも変わらない「言葉を紡ぐ人々」の姿である。

ただ、とくに今日において既存の出版のあり方を否定するという大義名分は、自己満足の杜撰な仕事を正当化しかねないという意味で、かぎりなく胡散臭いものであることも事実である。電子書籍を刊行することは、最低限の設備と技術さえあれば誰にでも可能になった。しかしバックライトに照らされた書物の骸のような代物を量産しても、そこには何の創造性もない。思い返してみれば、かつて蒸気機関が発明され、いよいよ汽車が作られるというとき、象られたのは馬車であった。それが人々にとって、高速の移動手段の典型だったからである。それと同じように、電子書籍は、既存の書物を象っている。画面上の文字なのだから、つらつら切れ目なく続いてゆけばよいものを、人々はなぜかいまだにノンブルを振った頁を「めくる」動作をしなければ本を読んだ気にならないらしい。仮にこのパラダイムが乗り越えられたとすれば、そこには必然的に新しい書物と、読書の「オルタナ」が誕生するだろう。だが革新を確実にするには、新しい文学も必要になるに違いない。それが可能かどうか、甚だ疑わしいところではある。模索のためにも、まだまだ紙の本に溺れたいと思う年越しであった。