書物・映画・殺人

「サイコ」(1960年)は脂の乗りきった時期のヒッチコックの代表作であり、最も売れた映画である。それはまた多くのタブーに挑戦した作品でもあった。結婚前であるにもかかわらず下着姿で男性と一緒にいる若い女性が、よりによってシャワーを浴びている最中に、全裸で殺されるというのは、映像としてまったく前例のないものであった。トイレの水が流れる場面さえ、アメリカでは「サイコ」以前には存在しなかったのである。

しかしそれよりも重要なのは、「サイコ」が文字通りサイコ・スリラーの古典となったことであり、それ以前とそれ以降のスリラーの分水嶺となったことだろう。むろん、スリラー映画は決して新しいものではなく、フリッツ・ラングの「M」(1931年)ですでに完成の域に達している。だが「サイコ」の新しさは、いわばメタ的な視点から、自らをスリラーとしてパッケージ化していることにあるだろう。映画の最後で、母親になりかわって殺人を繰り返していたノーマン・ベイツと接見した精神科医は、彼と母親との依存関係とその崩壊から来る憎悪、そして母親殺しの記憶とその抑圧という、絵に描いたようなフロイト式の解説を、すこし飽きてしまうくらいの長広舌で解説する。この自己言及のプロセスによって、幼児のトラウマから来る猟奇殺人とその謎解きという、王道スリラーの方程式が整備されることになったわけである。

このポスターが、すでに挑戦的である

このポスターが、すでに挑戦的である

有名なシャワーの場面は、撮影・音響面でも革新的

有名なシャワーの場面は、撮影・音響面でも革新的

さて「サイコ」はヒッチコックの手を放れてシリーズ化してゆくわけだが、その展開をみるまえに原作にも目を向けてみる必要があるだろう。というのも「サイコ」は、ロバート・ブロックによる同名の小説にそれなりに忠実に作られているからである。だがパルプ・フィクションから出発したブロックの作風は、そのままではサイコ・スリラーとは言えない。殺人鬼ベイツは原作では肥満した、うだつのあがらない中年であり、母親が彼に憑依するのも、酒にひどく酔ったときなのである。三島由紀夫の『金閣寺』にも見られるような、「美」に触れるたびに襲いかかる絶対的な記号としての母親の存在は、映画版で初めて前面に出てくる。

それでも自作の映画化が大当たりした快感を忘れかねたのか、ブロックは1982年に「サイコ II」をものしている。これは精神病院を脱走したベイツが、自分の半生を映画化しようとするハリウッドの映画人たちを殺してゆくという筋で、一種のメタフィクションとしてはおもしろいと言えそうだが、「サイコ II」の映画化を企画していたユニバーサルからは不評であった。ブロックは原作者として切り捨てられ、翌年公開された映画「サイコ II」は、退院したベイツが22年前の事件の被害者の遺族によって翻弄されるうちに、再びトラウマを抉られ、殺人鬼に返り咲くという内容になっている。

この続編が期待以上に成功したので、1986年には早くも「サイコ III」が封切られている。俳優としてこのシリーズとベイツ役にすっかり入れ込んでいたアンソニー・パーキンスが自ら監督をつとめたこの作品はしかし、驚くには当たらないが、商業的に失敗であった。内容としては、罪を犯した修道女をモーテルに居候させたベイツが、心を開きかけたのも束の間、またしても母親の人格によって邪魔をされ屍体を量産、ついに逮捕されるというものである。

原作者ブロック

原作者ブロック

「サイコ」初版

「サイコ」初版

さらに1987年には「ベイツ・モーテル」と題したテレビ映画が作られたが、ベイツが最初の事件のあとで獄死したことになっているなど設定に無理があり、パーキンスは出演しなかった。成功すればドラマ化の予定であったが、新聞で「今年最悪のテレビ番組」と評されるなど散々な結果で、計画はお蔵入りとなったのである。

ところがおもしろいことに、この「ベイツ・モーテル」に影響を受けて書かれたとも思われるのが、他ならぬ原作者ブロックによる小説「サイコ・ハウス」(1990年)である。この作品でもベイツは死んでおり、いまや観光地となったモーテルに訪れた作家が、奇妙な体験をするという筋書きになっている。

一方、映画のシリーズも、先の失敗を取り返すためなのか、同じ1990年に「サイコ IV」をケーブルテレビ向けに製作している。ここでは、進歩的な病院の方針で思ったよりも早く保釈されたベイツが、ラジオ番組に電話出演し、殺人者としての自らの来歴を語るという体裁になっている。いまやベイツは愛のある結婚をしているのだが、妻の妊娠を知り、自分の汚れた血が受け継がれることに恐怖するあまり、妻を殺そうと決心する。しかし最後には屋敷を燃やし、妻ではなく過去を葬ることで、ついに自由になるという大団円である。

さてこうして全体を俯瞰してみると、原作として出発し、やがてその権威を失ったブロックの「サイコ」と、原作にうまく手を加えてサイコ・スリラーの正典をつくりあげたヒッチコックの「サイコ」と、自らのキャリアをこの作品に結晶させることを選んだパーキンスの「サイコ」とが、まさにベイツの精神構造のように複雑な、重層的な応答関係を持っていることがわかる。このような構図は、物語が映画から書物へ、書物からテレビへと媒体を飛びうつってゆくことが容易になった現代ならではのものと言えるかもしれないが、それにしてもここで思い出さざるを得ないのが、ハンニバル・レクターという希代の殺人鬼を主人公とするもう一つのサイコ・スリラーのシリーズである。

トマス・ハリスによる小説シリーズ第一作「レッド・ドラゴン」が書かれたのは1981年である。この作品は1986年に「刑事グラハム/凍りついた欲望」(原題は「マン・ハンター」)として映画化されたが、さほど話題にならなかった。より大きな注目を浴びたのは、次作「羊たちの沈黙」(1988年)が1991年に映画化され、大成功を収めてからのことである。レクター博士を演じたアンソニー・ホプキンス(もう一人のアンソニー!)はその後も永くこのシリーズとつきあってゆくことになる。

さて「レッド・ドラゴン」は「羊たちの沈黙」と「ハンニバル」の続編として、2002年に再び映画化されることになる。そこで主犯のトゥース・フェアリーことダラハイドを演じたのがレイフ・ファインズであった。最初の映画化ではふてぶてしいところのあったこの殺人者はより繊細に描写されており、祖母からの虐待によってトラウマを負い、過去の亡霊に苦しめられている彼の姿は、明らかに「サイコ」のノーマン・ベイツと重なるのである。ダラハイドが恋人を家に連れ帰り、祖母の亡霊に向かって「彼女は渡さない!」と叫ぶ場面は、明らかに恋人を母から守ろうとするベイツの再現である。おまけにベイツを演じたパーキンスと、ダラハイドを演じたファインズの面持ちがよく似ていることに気づいてしまうと、そこに作り手の遊び心を感じずにはいられない。

ベイツ=パーキンス

ベイツ=パーキンス

ダラハイド=ファインズ

ダラハイド=ファインズ

「ハンニバル」シリーズの原作と映画の関係も、「サイコ」のそれに劣らず複雑である。映画版「羊たちの沈黙」のあとに書かれた小説「ハンニバル」(1999年)は明らかに映画版のファンを意識しており、また映画化の期待をもって書かれたものだが、「サイコ」の場合と同様、もはや映画の物語世界は原作者の筆には収まりきらない広大なものになっていた。ハリスが2006年に「ハンニバル・ライジング」を書き、翌年には自ら脚本を書いて映画化したものの、大方から大不評を買ったことも、「サイコ」シリーズ後期のブロックの足掻きを思い起こさせる。

ところで「サイコ」は、失敗したテレビ映画とおなじ「ベイツ・モーテル」という題で、昨年からドラマ化されている。そして、同じく昨年から、ドラマ「ハンニバル」も放送されているのである。現代サイコ・スリラーの創始から現在までを包括するこの二つのシリーズは、異なる媒体の狭間でさまざまな矛盾を来しつつ、それでもしたり顔で、今後ますます複雑化してゆくだろう。このテクストの奇怪な絡み合いは、やはりどうしても殺人者の心理を彷彿とさせはしないだろうか。そしてその網目を易々と貫くのは、ただ一本の殺人者の刃なのである。