見る・流れる

岩波少年文庫は六十年の歴史のなかで、当然ながら多くの作品を世に紹介してきた。この六十年のあいだに、出版や読書をめぐる状況が変わっていないと言えば嘘になる。とくに児童文学は、つねに何らかの形で、抑圧されてきたジャンルと言えるだろう。ジャンルなどなくしてしまえばよいのだが、それができないのが人間の悲しい性である。おそらく児童文学は、かつては大人たちによる教育的なまなざしによって検閲されていたし、より近年では、大人が敢えて児童文学を手にとることの遊び心と可愛さ、とでもいうような、成人が胎児化する現代にふさわしい、薄気味の悪い立ち位置を与えられているように感じる。

しかし読者にとって、本来そんな抑圧はノイズでしかなく、テクストの観賞になんら影を落とすべきものではない。そして岩波少年文庫の面白さはというと、ときにその送り出す作品が、むしろ読者に少年からの脱却を迫るようなものである、という点に尽きるのではないだろうか。例えばリンザーの『波紋』を、版元が推奨する「中学以上」の年齢にさしかかったばかりの少女(敢えて少女と言おう、まずこの作品を手にとるのは少女だろうから)が見出だしてしまったら、いったいどれほどの鋭さで、彼女の胸は青みがかった雷撃を受けるだろうか。

ルイーゼ・リンザーの作品は他にも訳されているが、いま簡単に入手できるのは上田真而子の訳になる『波紋』のみである。原書の出版は1940年、リンザー二十九歳の折りであった。元学校教師の妊婦がほとんど一息で書き上げたこの本はすんなり世に出、広く読まれた。戦時の鬱屈した人々の心に、このみずみずしい文学はなおさら沁みたのだろう。だがそれはつまり、リンザーが体制を敵にまわすことを予告してもいた。夫の戦死を受け入れる間もなく、1944年には政治犯として収監され、死刑判決を受けた。もうすこし戦争が延びていれば、リンザーは死んでいたのである。だから2002年まで生きながらえたリンザーが社会問題に関心を寄せつづけ、反骨を貫いたのは、ごく自然の帰着であろう。

リンザー

リンザー

さて『波紋』は、「わたし」の幼年期から思春期までの回想録である。「わたし」は大伯父と叔母のいるザンクトゲオルクの僧院に身を寄せる。それは戦渦を避けてのことだが、すぐにそんな事情は後景へと退いてしまう。というのもこの作品で問題になるのは、自らと世界の距離感に悩みつづける「わたし」の精神性だからである。なるほど『波紋』には、親戚や近所の子どもたちの綿密な描写や、いかにも田舎らしい寓話的な人間関係の諸相も登場する。しかし最も印象に残るのは、紛れもなく「わたし」にとっても印象深い次のような場面である。

わたしは我にかえった。快楽も、苦痛も、悪意も消えた。酔いはさめ、自分が何をしたのか、もうわからなかった。気がつくと、唇はみなといっしょにお祈りのことばを唱えていた。行列の先頭が僧院の中庭にはいってゆくところだった。お祭はおわった。わたしは家に帰っていった。

これは「わたし」が百合の花を掌で握りつぶしたときの感想である。その百合は、「蝋のようで、冷たくて、ぜんぜん生気のないもの」だったのだが、ふいに「白い蛇の頭」となって主人公を誘惑する。しかし翌朝には「花は、空虚な、なんでもない顔をしていて、ゆうべのさまざまな秘密の変身をなにひとつとどめていない」そぶりなのである。もはやこの百合をつぶすことが、平穏への唯一の道であるかのように思われた。

そして、僧院の庭で、水盤を前にしての次の場面。

そして花や葉っぱをとってきて水面に浮かべ、よせてはかえす波紋に見入った。だが、まもなく、輪が表面だけをすべっているのに気がついた。水盤の水全体はなにも感じていないのだ。表面の遊びだけをわたしに許しておいて、自分は動かされず、侵されず、わたしの力から距離をおいて身をまもっている。

つまり世界は「わたし」の意志の前に動じることがない。水盤をすえたホールには、「匂いのない匂い、中身のない匂い」が充満している。それは「わたし」を満ち足りた気分にさせるが、結局はそれは、絶望の匂いなのだった。

このように『波紋』で追求されるのは、精神がどこまで世界に作用するか、という問題であり、その意味では、おなじドイツのヘッセの主題とも重なるところが多い。事実、ヘッセは誰よりも早くリンザーを賞讃した作家であった。作家も人間であるから、どうしても自分に似たものを誉めがちなのである。

似ていると言えば、ヘッセに対するのとはまたべつの形で、『波紋』はジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』にも似ている気がする。

グラック

グラック

処女作として1938年に刊行された『アルゴールの城にて』は、ブルトンに激賞されたから、という事情がなければ、これといってシュルレアリスムのジャンルに紐づける必然性のない作品であるようにも思われる。そして、ここでも問題になるのは、アルゴール、ハイデ、エルミニアンという三人の登場人物が繰り広げる一種独特な恋の鞘当てではなく、その関係を可能たらしめている精神のほうである。ただし、『波紋』の場合とは違って、『アルゴールの城にて』で精神を代弁するのは累々と折り重なる比喩という書法そのものであって、その意味では、語り手という第四の登場人物の精神性こそが問われるべきなのかもしれない。とまれ、やはり『アルゴールの城にて』でも、登場人物たちは認識のゆらぎ、あるいは不可能というものにぶち当たらずにはいないのである。

三人とも同時に、もはや二度と陸地の方を振り向くことも眺めることもできまいと感じ ー ただ一度の目くばせで、一つの共謀関係が彼らの肉体と精神とを結びつけた。めいめい、瞳の中に、この命がけの挑戦がまざまざと見えるような ー 他の二人が、肉体のあらゆる努力を注ぎ、意志のすべてを傾けて、自分を運び去ろうとしていること ー 沖の方へ ー 前方へ ー 未知の虚空へ ー 二度と生きては戻れない深淵へと ー そして三人とも、自分たちの意志と自分たちの宿命のこの突然の一致にひそむ、油断のならない罠のような性格を知りぬいていることがひしひしと感じ取られるような、そんな気がした。(安藤元雄訳)

このように、内向きの眼が見つめる空虚によって現前している『波紋』と『アルゴールの城にて』がどちらも戦争期に書かれていることは、あたかもリルケやランボーが理想化した「見る」という行為が、砲弾の蹴散らす砂煙によって危機に瀕していたことの比喩なのかもしれない。だが、いやだからこそ、これらのテクストは美しい。世界が言葉によって成り立つことの絶望を全身全霊で引受けるはずのテクストが、まさにその言葉によって揺るがされ、流れ、水の底へと沈んでゆく。これこそ、言葉の芸術としての文学にとって、まさに究極の文学的感覚であろう。言葉で見たものが流れるにまかすこと、これ以上の贅沢があるだろうか。