アリス再訪、あるいは何故アリスは大人になることを拒んだか

ヤン・シュヴァンクマイエル監督の「アリス」(1988)は文句なしの佳作である。言うまでもなく、物語はルイス・キャロルによる英文学屈指の傑作、『不思議の国のアリス』に取材されている。

映画の冒頭で、アリスは観客に忠告する。「この映画を観るときは目を閉じなさい。目を閉じなければ、なんにも見えないから」と。その忠告に従ったとき、何が見えるのか。シュヴァンクマイエルが自らをパロディ化するかのようにあからさまに固執するフロイト的な精神分析の定石に則れば、答えは自ら明らかなのかもしれない。

この映画を観るとき、男性的な目はアリスを、女性的な目はウサギを、ひたすらに追い続けはしないか。男性的なアリスが次から次へと遭遇するのは、鋏を持ったウサギをはじめとする恐ろしい、女性的な去勢者たちである。砕け散るガラスも、釘も、女王も、地下世界への旅のさなかで性に目覚めようとするアリスに襲いかかり、その芽を摘もうとする。(入れ歯をはめた靴下が茸に覆いかぶさる場面はこれを要約している。)やがてアリスは夢から覚め、元の世界へ帰ったかのように見えるが、その世界はすでに姿を変えてしまっている。もはやアリスは肛門期を脱し、性を認識した女性になったのである。ちょうど写真の場面のように、彼女は脱皮したのだ。

脱皮するアリス

脱皮するアリス

不思議の国に滞在中のアリスには、まだ小さな男根がなかったか。映画の原題は Něco z Alenky すなわち「アリスの何かしら」であるが、その「何かしら」も、あるいはこの器官をめぐる言葉ではないか。夢想のなかのアリス、まだ具体的な肉体を持たないアリスは、たしかにヘンリー・ダーガーが描く少女たちと選ぶところのない存在である。むろんこのテーマは、少女たちの内にしか自らを補完する部品を見つけられなかった孤独な数学者、キャロルの原作にも現れている。しかしそれを見事に陰と陽とに整理し、永い夢のなかに融合させたことは、疑いなくシュヴァンクマイエルの手柄であろう。

ダーガーの描く少女は、少年の肉体を持つ

ダーガーの描く少女は、少年の肉体を持つ

ところでシュヴァンクマイエルは翌年、短編「闇・光・闇」を発表している。これはまさにシュヴァンクマイエル自身による「アリス」再訪であり、キャロルを呑み込んで消化したチェコの粘土細工師が漏らしたおくびである。というのもこの短編は書物のほうの『アリス』でいえば第四章、白ウサギの家に上がり込んだアリスが、(周囲の基準で見れば)巨大化して家屋を破壊しかける、あのドタバタした場面をなぞっている。

もちろん「闇・光・闇」の主人公はアリスではない。それは分解された体の各部分からまさに組み上がろうとする一つの生命である。手が目玉を、頭を、歯を、足を獲得するまではよかった。だが脳みそまで手に入れたのは余計ではなかったろうか。たくましい肉体を醸成し、陽物をぶらさげ「男」になったその生命は、閉じ込められているその部屋には大きすぎて、瞬く間に居場所を失うと、再び闇に包まれるのである。つまりこの男はアリスが忌避した大人への階段を一足飛びに昇ってしまったばかりに、あわれ身動きが取れない羽目に立ち至ったわけである。そして残念ながら私たちはアリスよりもこの男に近い。言ってみればこの男は、自分をアリスと思い込んだキャロルその人なのである。

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テニエルの挿絵、アリス、そして男

テニエルの挿絵、アリス、そして男