窃書考

魯迅に「孔一己」という短編がある。コンイーチーと読む。孔一己は村の酒屋の常連である。孔一己は渾名である。村人たちからはよく馬鹿にされている。孔一己はかつて学問をしたが、秀才の試験に落ちた。つまり科挙を受験することはできない。代書屋をして口を糊しているが、たまに払いが滞る。それでも村の子供たちに囲まれると、豆を一粒ずつ与える。

孔一己は、どうやら時折、物持の邸から本を盗む癖がある。学問を捨てきれぬらしい。だが盗むたびに露見し、したたか痛めつけられる。孔一己の言い分はこうだ。「窃書は盗みとは申せん……窃書はな……読書人のわざ、盗みと申せるか」

そして孔一己は、また盗みに入った。また露見して、今度はまともに歩けなくなった。酒屋に、這ってやってきて、酒を飲み、それきり姿を消してしまった。「孔一己」はそれだけの話である。

本を盗むという行為は、例えばパンを盗む行為とは違う。本は世界である。なるほど、紙面に文字を並べたもの、と言えばそれまでかもしれない。たしかに黒い文字は、光の欠如に過ぎない。しかし紙の白は、ちょうど高山宏が『白鯨』を論じた「メルヴィルの白い渦巻」で述べているように、一切の色彩の欠如であるとともに、すべての色彩の併存でもある。その何もない、恐ろしい空間に、言葉は光の欠如と同時に意味をもたらす。それが書物である。大島渚が「新宿泥棒日記」で描いたように、それを盗むことは逃避であると同時に、秩序への憧れでもあるだろう。

テクストは引用の織物であり、引用のモザイクである。バルトやクリステワの言葉はそれこそ無限に引用され、思想や文学をとりまく数知れないテクストを織り、モザイクを組み立ててきた。引用は宿命だから、盗みではない。孔一己もその意味では、盗んだのではない。孔一己は読書人であった。物体としての書物は欲望を満たすが、ひとたび開かれてしまえば、意味を持つのは白と黒の言葉の世界である。孔一己が必要としたのはこちらのほうだろう。

世界と同じ大きさをした、白い鯨。 『白鯨』の挿絵、1892年。

世界と同じ大きさをした、白い鯨。
『白鯨』の挿絵、1892年。

読書人は焚書をしない。焚書は、物体としての書物が、すなわち言葉の世界であると思い込んだ人間の業である。書物を焼けば、世界も消えると思っている人間の空騒ぎである。読書人が焚書をするためには、ちょうどホーソーンが「地球の大燔祭」でそうしたように、言葉の世界の内部で火を起こさなければならないだろう。

だから、気に入らない書物を破ってみたり、あるいは言葉の世界に足を踏み込んで、それが自分の言葉であるかのように振る舞ってみたりという行為には、それがどんな利益や不利益をもたらすにしろ、まったく意味がないのである。言葉の世界は常に変わり続けるのであり、それゆえに、不変であるから。