いじわるハネケは愛を信じるか

ハネケといえば、映画の文法を逆手にとって観客を翻弄することにかけてはちょっと右に出る者のいない監督である。失敗はビデオよろしく「巻き戻し」てなかったことにしてしまう殺人鬼をただ眺める「ファニーゲーム」(1997)にしても、他ならぬ映画の語り手が登場人物たちの心の傷を抉り出す「隠された記憶」(2005)にしても、ハネケは常に映画に線条性を期待する観客を嘲笑い、物語を開かれた状態で置き去りにしてゆく。

映画人の両親を持つハネケ。 映画を監督するようになったのは中年を過ぎてから。

映画人の両親を持つハネケ。
映画を監督するようになったのは中年を過ぎてから。

そんなハネケが、最新作の「愛、アムール」(2012)では老夫婦の静かな愛を描いている、という評判にちょっと驚いた。しかし蓋を開けてみれば、そんな評判をすこしでも信じた自分の馬鹿さ加減に驚く羽目と相成ったのである。

引退した音楽家の夫婦が、パリのアパルトマンで人生の冬を楽しんでいる。ある日、妻は何の前触れもなく病に倒れる。病院を嫌う妻のため、懸命に介護に努める夫…。というのが、まず表向きの物語の前提である。だがそんなものはどうでもいい。実際この映画が描こうとしているのは、愛という言葉の多様性/不可能生と、愛に過剰な期待を寄せることの愚かさであるように思われる。

例えば妻アンヌが最初の発作を起こしたとき、夫ジョルジュは一切の反応を示さなくなった妻の前で「ククー!」と手を振る。これは相手の注意を惹くための一般的な間投詞に過ぎないが、「カッコウ」を意味するこの言葉には相手の理性を疑うという意味が当然ふくまれているし、何しろそれがあまりにはっきりと発音されるので、こちらとしては「カッコーの巣の上で」を思い出さずにはいられない。

そして、映画の結末(この監督の映画の宣伝文句に必ずついてまわる、「衝撃的」な結末である)に至って、その直感は間違っていなかったと確信した。不自由な人生に絡みとられてしまった同志を死によって解放したあと、ジョルジュは姿を消す。それは「カッコーの巣の上で」とまったく同じ構図である。だが、あの映画では不確定ながら自由の光が射していた。舞台は精神科病棟であり、脱出先は娑婆である。しかしこの映画では、老夫婦は愛の巣にいるのだ。

妻を自由にする直前、ジョルジュは自分の幼年期の思い出を語る。彼は夏のあいだ、ただでさえ嫌気のさす合宿先でジフテリアにかかり、隔離されてしまう。彼は母親と取り決めた暗号にしたがって、葉書に星の絵を描く。「僕は悲しい」の合図だ。その少年のときの気持はそのまま、退路を断たれた夫婦の現状に結びついている。ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』よろしく、隔離を楽しむこともできたはずだ。だがこの隔離は世界そのものからの隔離であって、しかも無期限である。

幼年期と言えば、アンヌのほうも病に冒されてからはいつも母親を求めるようになる。無心でアルバムを見返すアンヌ(この場面はユスターシュの「アリックスの写真」を思い起こさせる)を、ジョルジュは黙って見つめている。それは愛のまなざしではない。無理解のそれである。そう、思えばこの夫婦は、まったくもって心が通っていない。それぞれ自分の思い出に浸っているだけで、そこに登場する夫/妻を懐かしむのが関の山なのだ。

1883年の米国の挿絵。 港から流入する疫病を食い止めようとしている。

1883年の米国の挿絵。
港から流入する疫病を食い止めようとしている。

そもそも、ジョルジュは何者なのだろうか。アンヌは立派な弟子を育てたピアニストだが、私たちはやはり音楽家らしい夫のほうの社会的な顔をほとんど垣間見ることができない。物語の表層では、確かにジョルジュは優しい夫である。だがあるとき、アンヌはこう言う。「あなたは怪物のようにもなるけど、でも、優しい」と。

こうしてみると、私たちにはアンヌが倒れるまでの夫婦の姿も、ジョルジュの行動の正当性も、何一つわからないのである。ただ言えるのは、この映画が愛にまつわるコミュニケーションと、まったく同じだけのディスコミュニケーションを扱っているということだ。つまり愛は双方向のものであるのと同じだけ独りよがりのものであるのかもしれない。

しかしこの映画のいちばんの曲者は、夫婦の娘であるエヴァだろう。父母の夜の営みが漏らす声(これまた、表面的な愛の音声に過ぎない)を子守唄のようにして育った、と告白して憚らないエヴァは、いまや愛のない家庭に疲れた妻であり母である。一見、彼女は母親を心配するあまり父親に反抗的な態度をとる、ごく普通の娘であるようにも思える。だがエヴァは、病床の母親のうわごとをまるで理解できない(しようとさえしない)し、アンヌのほうも、薄れる意識のなかにあって娘に会うことに抵抗しているように見える。

ジョルジュとエヴァの会話は常にちぐはぐである。

ジョルジュとエヴァの会話は常にちぐはぐである。

いちばん恐ろしいのは最後の場面だろう。母が死に、父が行方不明となって、無人となったアパルトマンに、エヴァがやってくるところで映画は終わる。私たちは、財産を増やすことに躍起になっているエヴァが、不動産への投機を目論んでいたことを知っている。そしてエヴァはいま、広々としたアパルトマンを、渡りに船で相続したのである。カメラは引き気味で、エヴァの表情はわからない。だがそこにはうっすら微笑が浮かんでいなかっただろうか? そしてこのような女性が人類の母たるエヴァの名前を持っていることを考えると、やはりハネケの性悪説は健在なのだろう。

ハネケは愛を信じるだろうか。少なくとも、この映画の題としての「愛」は、ハネケの映画への愛でもあるように思う。円熟したハネケの技術は、いよいよ豊潤な物語のひだに、容易く冷笑を縫い込んでしまう。しかしアンヌを演じたエマニュエル・リヴァがよりによって「二十四時間の情事」、すなわち Hiroshima mon amour の主演女優であることを思い出してみると、今回の Amour という題もまた、ハネケのいじわるにしか見えなくなるのである。