都市の沸騰

芸術家について語る場合、その一生にもっとも濃い影を落としている土地は、しばしば彼らの故郷である。たとえば「唯一のシュルレアリスト」ダリについてもこれは言えることで、カタルーニャの風景、文化はダリという芸術家とその作品の形成にとって欠くことのできない要素であることは言うまでもない。ダリ本人も作品を通じ、また作品の外においても、折に触れてカタルーニャについて語っている。しかしダリの故郷フィゲラスはカタルーニャ東北部の小さな田舎町(人口約3万)に過ぎず、その意味では近代の美術の流れのなかにダリを位置づける楔としては少々脆い。またダリもフィゲラスにとどまっていたのはせいぜい少年期に過ぎないのだから、その後の彼の創作活動の源泉がすべてフィゲラスに見出されると言うこともこれは不可能である。

さてダリは旺盛な創作を続けながらマドリッド、バルセロナ、ニューヨークと様々な都市で活動したが、その人生の節目節目はパリで迎えている。

1924年のパリが、美術史的に見て非常に混沌としていたことは想像に難くない。1905年頃に産声をあげたフォーヴィスムの旗手マティスがおり、新古典主義時代の終焉を迎えようとしているピカソがおり、他国で誕生した未来派や構成主義の担い手たちも流入していただろう。しかしこの年の事件といえば、何を措いてもブルトンの「シュルレアリスム宣言」を挙げねばなるまい。

周知のとおり、詩人ブルトンの言うシュルレアリスムとは理性や先入観から開放された思考をオートマティスム(自動記述)などを通して表現するという触れ込みで、すでに1910年代に誕生していたダダイスムの流れを汲みながらも、さらにフロイトの理論を取り込んで意識下への探求をより明確化した芸術運動である。ブルトンが詩人であることからも明らかなように、シュルレアリスムは総合的な運動で、表現手段は絵画・文学・彫刻・映画と多岐に渡った。色彩豊かなのは運動のメンバーの出自も同じで、スペイン・ドイツ・チリなど様々な地域の出身者がいた。

たしかにシュルレアリスムはパリで起ったが、それはその時空の一点で、パリが依然としてヨーロッパの文化的中心に位置していたから、という偶然に起因するに過ぎないように思える。運動を牽引した外国人たちを見るにつけ、もはや19世紀中頃までの「美術はフランスで、フランス人の手によって生れる」というあのアンシャン・レジーム的構図が完全に消え去っていることが感じ取れる。同時に1924年は大戦後でもある。近代人はすでに全体主義の匂いを知っている。「都市」という言葉の意味合いはそれまでの「城壁に囲まれた、国家の最小単位」というようなものから「国家のなかに点在する街の主たるもの」というようなものへ変わっていたのである。

ダリに話を戻せば、彼はシュルレアリスム誕生前の1921年、マドリッドの美術アカデミーに入学している。ピカソのように早熟な才能を持ち、やはりピカソのように必ずしも校風に馴染むことの出来なかった演技派の異端児は、詩人ロルカや映画監督ブニュエルらと親交を結ぶ一方、キュビスムやダダイスムを吸収してゆく。1925年の作品「ヴィーナスとアムール」などは、当時の彼の嗜好を執拗に主張していると言えるだろう。こちらに背中を向けるヴィーナスの背中は、ちょうどイベリアの彫刻に触れ「肉体の厚み」とでも言うべきものに魅せられていた頃のピカソが描く女性を髣髴とさせる豊満さを誇示しており、背景の岩山や空を斜めに区切る線や天使たちの造形はキュビスム特有の複雑な視点の錯綜を見せる。

ヴィーナスとアムール

ヴィーナスとアムール

翌年アカデミーを放校処分になったダリは詩作に手を広げたり兵役に就いたりしながら、ついに1929年、パリでシュルレアリストの運動に合流することになる。特筆すべきは、彼がシュルレアリストたちに受け入れられるきっかけとなった作品が絵画ではなく、ブニュエルとの共作映画「アンダルシアの犬」であったという点である。ダリは生涯にわたりいかに自分が「シュルレアリスト」であるか、つまりただの画家ではないかということを強調しつづけたが、それは彼が総合的な芸術家を自負していたということに他ならない。

だが ダリにはブルトンら中央のシュルレアリストたちと相容れぬ部分がいくつもあった。とくに彼らの表現者としての根本的な相違は、ダリがオートマティスムに頼らなかったことである。ダリはこの魔術的な手法が陥りがちな非合理な妄想ではなく、普遍的な象徴としての物質を駆使しながらより明確に意識下の世界を表現しようとした。このような背反やエキセントリックな行動を理由に(なんと馬鹿げた理由だろう)1934年、彼はグループを除名されている。

まぐろ漁

まぐろ漁

しかしダリはむしろ檻から放たれたと言ってよい。その後のダリは「唯一のシュルレアリスト」として、自由にその世界を追求してゆくことになる。活動範囲はむろん絵画に収まらず、エリザ・スキャパレリとファッション業界に漕ぎ出したかと思うと、宝石の意匠に携わったり、はたまた家具を作ったりと、要はあらゆる活動、極論すれば自身の存在そのものを通してシュルレアリスムを発信し続けた。晩年のダリと言えば、金のために駄作を量産する守銭奴というのがもはやクリシェになっているが、1982年にガラを失うまでの活動が精力的であることは否定のしようがない。たとえば絵画であれば、彼なりのシュルレアリスムが最も煮詰まった傑作は1950~1970年代、ダリが四十代から六十代の半ばに至るまでに制作されている。その一つが1967年の「まぐろ漁」である。この大判の作品には点描、だまし絵、アクション・ペインティング、ポップ・アートなどなどの要素がてんこ盛りに寄せ集められ、かつ見事に調和し、これほどの乱脈ぶりにもかかわらず静寂すら感じさせる。

煮えたぎるような「まぐろ漁」の淵源には、やはり溶鉱炉のように熱く溶けるパリという都市の存在が透けて見える。シュルレアリスムはパリで生れたが、それはどこで亡びたのだろうか。それはパリではなく、マドリッドで、ローマで、モスクワで、ニューヨークで、東京で亡びたということになるだろう。ダリのみならず、ジャコメッティをはじめ幾人もの芸術家がグループから離れ、各地に種を蒔いた。さらにはグループを離れなかった人物たち、たとえばリーダー格のブルトンやマッソンでさえ、第二次大戦中にアメリカに亡命したことで彼地の抽象表現主義の台頭に一役買っている。要するに二十世紀に入る頃から、美術をとりまく「都市」は変貌を始めたのである。都市はもはやその土地に特有の芸術を閉じ込めておくための牢ではなくなり、代わりに芸術家たちの社交場に、文化と歴史の交差によって訪れる芸術家たちを刺激する肥沃な畑へと姿を変えたのだ。都市にはもう美術品を独占することは出来ない。その喪失感がさらに都市を沸騰させる。