谷崎博覧会

谷崎潤一郎の「青い花」は1922年に雑誌「改造」に掲載された。「処女作には、その作家のすべてがある」とは駄句であろう。そのつもりで読めば、そう読めてしまうからである。しかし「青い花」はすくなくとも「刺青」に比較して、はるかに谷崎という作家のすべてを内包しているように思える。

「青い花」には筋がない。というより、非常に単純である。肉体の衰えを気に病んでいる岡田と、その恋人の少女あぐりとが、銀座から横浜へと汽車に乗り、そこで洋服を買い整える、というのがこの短編の筋のすべてである。ここで、谷崎と芥川のあいだに起こった有名な「筋のない小説」論争を思い起こしてみるのもいい。谷崎はおもしろい筋書きを持った小説の擁護者であった。だが「青い花」には筋らしい筋はない。とはいえこれは矛盾ではない。というのも、谷崎が「筋」と呼んでいるものには、小説の構造も含まれているからである。そして構造こそ「青い花」のすべてである。

1920年代の横浜

1920年代の横浜

「青い花」は出口のない螺旋構造を持っている。あぐりと街を歩き、汽車に乗り、また街を歩く。その折々に、岡田はあぐりの肉体や、あられもない姿や、ふたりで共にする艶やかな遊戯に思いを馳せる。しかしそれだけではない。岡田はまた自らが病み衰えてゆく様を執拗に妄想し、亡くした母を思い出し、さらには生きているのか死んでいるのか、ともかく別れ別れになってしまった妻子の亡霊にまでとり憑かれ、そのたびに「グラグラと眩暈」に襲われるのである。

読者はやがて気づくのだが、実際の岡田とあぐりはほとんど口をきかないのである。あぐりは美しい少女だが、おそらく岡田が望むような魔性の女とは程遠い、無学で無知な少女である。この日、横浜の店で洋服を手に取るまで、あぐりは着物しか着たことがなく、どのようなドレスが自分に似合うのか見当もつかないし、そもそも着方もわからない。

つまり岡田が語るあぐりとは、岡田の脳に寄生するあぐりでしかない。岡田はあらゆる妄想をあぐりに寄せることで、衰えつつある肉体と向き合う恐怖を緩和しているように見える。岡田は中国や欧州の歓楽街と、そこに住む美しい夜の女たちを想う。あぐりはそのすべての役を演じる。あぐりの繊細で美しい手はただちに「物」に還元され、岡田のフェティッシュの容器になる。銀座という最先端の街から、横浜という異国情緒あふれる港町へというふたりの道程も、岡田の夢想の炎に油を注ぐ。だがその先にあるのが肉体の崩壊だけではなく、精神のどん詰まりでもあることは明らかである。

「アマチュア倶楽部」のロケにて。手前、カメラの右が谷崎、その隣が三千子

「アマチュア倶楽部」のロケにて。手前、カメラの右が谷崎、その隣が三千子

実際の谷崎はこの頃、本牧から山手に移ろうというところで、すでに横浜という街の瘴気を存分に吸い込んでいた。しかも映画会社・大正活映の脚本部顧問として、時代の先をゆく少女たちと触れ合う機会に事欠かなかった。谷崎原作の「アマチュア倶楽部」は日本初とも言うべきハリウッド仕込みのお色気コメディで、そこで水着姿をさらして観客を陶酔させたのは他でもない谷崎の義妹、葉山三千子である。その姉、つまり妻の千代を佐藤春夫に譲ると宣言して世間を驚かせた「細君譲渡事件」の萌芽もすでにあった。そのような状況で「青い花」が書かれることは、もはや当然であろう。

そしてまた「青い花」の先に『痴人の愛』があることも言うまでもない。関東大震災、京都への移住という出来事を挟んで書かれた『痴人の愛』は、谷崎のキャリア前半の総決算ともいえる作品である。「青い花」はそこへと向かう、いわば序奏であり助走であった。しかし「青い花」が『知人の愛』とはかなり異なる構造を持っていることを忘れてはならない。以前、『痴人の愛』とナボコフの『ロリータ』を比較したことがあったが、その両者では「青い花」はむしろ『ロリータ』に近いのである。何故ならナオミと違い、あぐりはただ空虚な肉体を持った、主人公の妄想のための人形でしかないからだ。