言葉の世界に閉じ込めて

「籠の中の乙女」は、ヨルゴス・ランティモス監督による2009年のギリシャ映画である。原題は Κυνόδοντας すなわち「犬歯」なので、邦題は倒錯的なイメージで耳目を集めようという戦略だったのかもしれないが、「犬歯」は映画で重要な意味を持つモチーフでもあるし、誤解を招くような改題はいかがなものか。

さてこの映画、資産家の会社員が妻と結託し、三人の子供を大きな庭のついた邸から一歩も出さず、無菌状態に監禁するという内容である。猫がおそるべき猛獣であり、飛行機が手のひらに乗るくらいのおもちゃであると信じ込まされている子供たちだが、もはや成人間近の彼らは肉体的にも大人になり、封じきれない違和感を暴力的な衝動に委ねるようになってゆく。

映画「籠の中の乙女」より

映画「籠の中の乙女」より

注目すべきは、この映画が徹頭徹尾、言葉によって構築される世界を描いていることだろう。子供たちは母親が吹きこんだテープによる語学の勉強を課されている。それは外国語を学ぶためではなく、外の世界の言葉を家の中の世界の言葉に翻訳するための作業である。例えば子供たちが「海」という外の世界に結びつく言葉をもののはずみで耳にしてしまうと、両親はそれが「椅子」のことであると教え込む。「ゾンビ」という俗っぽい言葉は、庭に咲いている「小さな黄色い花」に変換される。

つまり彼らは言葉の世界に閉じ込められているわけだ。この映画の場合、彼らは被害者であるが、しかし私たちは誰もが、自らの言葉を通した認識に縛られている。それはプラトン以来の呪いである。だがそこには希望もある。プラトンが『国家』で哲学者の理想として描いているように、この認識を超越する力を持てば、私たちは哲学者になることができ、他者を導くこともできるようになる。

文学の営みもまた、「監禁」という状況と切っても切れない関係にある。サドは女たちを監禁するという事件を何度か起こしたが、その監禁はその後サドを待っていた半生にわたる投獄に比較すれば些細なものであった。そしてこの獄舎でサドの文学は誕生したのである。ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』や、マンディアルグの作品でも、「監禁」あるいは一つの区切られた空間での出来事というものが、文学的な冒険に欠かせない状況設定となっている。

ピラネージ「鎖のある壁」   サドとほぼ同時代人であるこの画家は、城塞や遺跡を多く描いた。 それらもまた牢獄ではないだろうか?

ピラネージ「鎖のある壁」
サドとほぼ同時代人であるこの画家は、城塞や遺跡を多く描いた。
それらもまた牢獄ではないだろうか?

ジャン・ジュネもまた、自身が「監禁」されたことで才能を開花させた作家の一人であろう。ジュネは売春婦の私生児として生れ、捨てられ、養家をたらい回しにされた。おまけに知能も高い。これは連続殺人犯の典型的な生い立ちである。彼が軽犯罪に手を染めただけで、殺人にまで堕することがなかったのは、獄中で書く行為を獲得したからにほかならない。殺人が存在論の極限に迫る行為であるならば、おそらくそれに取って代わりうるのは書くことだけであろう。

ジュネの作品の登場人物は、ジュネ自身と同じく、ヨーロッパのあちらこちらを放浪する。そこで彼らは男色に耽ったり、殺したりする。バタイユを持ち出すまでもなく、この二つは類似した行動と言ってよい。それは自身と他者とを交換する手続きである。実際、ジュネの小説の語り手はしばしば他者に憑依し、忙しく入れ替わる。そしてこの交換を可能にしてくれるのは、ただ言葉だけなのだ。言葉という監獄のなかに、自由の一縷の光がさす。