「反ミューズ」たち

女性にミューズの称号を捧げることは、相手に取って必ずしも名誉なことではないだろう。なるほどその男性の創作に彼女が欠かせない存在であり、感謝と尊敬を込めてミューズと呼ぶなら悪いことではないかもしれない。しかし、もしその女性が自分も創造する者であるという自覚を、常よりも強く持っていたらどうなるだろうか。そんな女性をミューズと呼べば、「君は僕の作品の助けになるんだ。何かを作ろうだなんて思わなくていい。ただ美しく、興味深くいてくれればいいんだ」という意味に捉えられても文句は言えない。芸術の対象になる代わりに芸術家の資格を放棄せよ、と聞えるわけだ。それでも世の中には、男性の創造を促している点では確かにミューズでも、とてもそんな温和な、甘ったるい形容詞には収まらない女というのがいるのである。

ルー・アンドレアス=ザロメ(1861-1937)はそんな女の代表格としてつとに有名である。ルイーズ・フォン・ザロメとしてサンクトペテルブルクで軍人の家に生れた彼女は、十七歳までに当時の女性に許された教育をすべて了えていたが、そんな花嫁修業のようなものでは満足できなかった。そこで知人の牧師を説得し、神学や哲学、そして独仏の文学を学んだ。この個人授業の間に何があったのか、牧師は妻と離婚するからとルーに結婚を申し込む。ルーはすぐに逃げ出し、女性でも大学に入れたチューリッヒを目指す。

ルー・ザロメ このすこし奇妙な眼差しが男たちを虜にした

ルー・ザロメ
このすこし奇妙な眼差しが男たちを虜にした

二十一歳になったルーはローマの文芸サロンに出入りしていた。ここで出会ったのがドイツ人の作家、哲学者で病的な賭博者でもあったパウル・レーである。そして「肉欲的な愛に溺れず、一緒に熱心に勉強すること」という奇妙な条件で、二人の同棲がはじまった。二ヶ月ほどすると、ここにもう一人の哲学者が加わることになる。他でもない大思想家、フリードリヒ・ニーチェである。だが男女三人の共同生活が長続きするはずもない。ルーはニーチェが約束を破り自分に恋をしていると責め、彼を追い出してしまう。今日なお絶大な影響力を持つニーチェの思想も、彼の晩年を特徴づける狂気も、少なからずこの体験に拠っているのだろう。

ザロメ、レー、ニーチェ。馬車馬を鞭打つ女に見える

ザロメ、レー、ニーチェ。馬車馬を鞭打つ女に見える

ルーはパウル・レーとの関係を保ったまま、言語学者のフリードリヒ・カルル・アンドレアスと結婚する。もちろん、他の男との関係は自由という条件付きである。だがレーはルーが夫と暮しているという事実に耐えきれなくなり、やがて関係を解消する。

ルーはその後もフロイトなどと親しくなったが、とくに真剣だったのは詩人リルケとの関係であろう。二十一歳のルネ・マリア・リルケは彼女に「ライナー」と呼ばれたからそのように改名したのであり、彼女によって有力なパトロンにも引き合わされている。恋人として過ごしたのは最初の数年間だが、文通は彼の死まで続いた。

このルー・アンドレアス=ザロメとはいったい何物なのだろうか。彼女はただ有能な男たちによろこびや苦悩を与えたわけではない。自身も小説や戯曲、随筆を出版し、リルケの伝記の編集者を務め、精神分析も行っていた。しかもその名前は、あの妖艶な舞の見返りにヨハネの首を捧げられたヘロディアの娘、サロメと同じなのである。

サロメを描いたモロー「出現」

サロメを描いたモロー「出現」

このルー・ザロメほど突出してはいないが、ほぼ同時代を生きたもう一人の「反ミューズ」にも光を当ててみたい。イギリスのベリル・ド・ゼーテ(1879-1962)である。ルーと違って、ベリルは終生ほとんどロンドンを離れることはなかった。

彼女はオックスフォード大学で学ぶことを許された最初期の女性であった。二十三歳で作家のバジル・ド・セリンクールと結婚するが、彼女はいくつかの条件を挙げる。肉体関係のない、プラトニックな夫婦でいること。生活の基盤は勉強とすること。菜食主義者になること。(この辺りは、ベリルがルーの行動をどこかで聞きつけ、真似をしていたのではないかとも思えてくる。)夫はものめずらしさも手伝って最初はこれに付き合っていたが、すぐに我慢ができなくなった。数年後に結婚が破綻する直前には、妻のいる前でべつの女性を連れ込み、彼女とベッドに入るまえにステーキを平らげるほどだったという。

ベリルは当然激怒し、家を出ると、今度は写真家のジョン・ホープ=ジョンストーンと同棲を始める。プラトニックな関係は前と同じだが、ベリルが主な栄養源として勧めたのは野菜ではなく果物とヨーグルトであった。オリンポスの神々か、天使たちのような生活を目指したのだろうか。さらに言語と楽器の習得という目標も強制した。写真家はうまく彼女の要求に合わせて暮していたが、おもしろいことに、このとき禁を破ったのはベリルの方だった。読書中の恋人の横顔に興奮し、キスしてしまったのである。ジョンは「約束を破ったね」と怒り、そのまま家を出たというから驚く。

そのあとベリルがついに出会ったのが、東洋文学者のアーサー・ウェイリーだった。そう、あの『源氏物語』の訳者として、西洋への日本文学の普及に大きな足跡を残した人物である。ウェイリーは社交下手で不器用な、文学以外の面ではあまりうだつの上がらない男だったようだ。それが幸いしたのか、ベリルが好き勝手にふるまっても、ウェイリーが彼女を憎むことはなかった。

しかし周囲の人間はそうは行かない。ウェイリーもホープ=ジョンストーンと同じく、ブルームズベリー・グループの周縁にいたのである。グループの面々はウェイリーが清廉な英語に移しかえる東洋の文学には興味津々だったが、ヴァージニア・ウルフなどはおしゃべりで気取り屋のベリルを眺めながら、どんなに眉間に皺を寄せていたことだろう。

だがそれもどこ吹く風、ベリルは我を通した。後に東洋の伝統舞踊の専門家となり、それを西洋のバレーに融合させるなどの活動を行ったベリルは、イタロ・スヴェーヴォの作品を英訳するなど、文学にも深い造詣があった。旅行を愛したがウェイリーは連れて行かず、現地に詳しいエキゾチックな男たちとこれ見よがしに出かけたという。

バレエ・リュスのデヴィッド・リシンと話すベリル。1939年頃

バレエ・リュスのデヴィッド・リシンと話すベリル。1939年頃

ところがウェイリーもそこは曲者で、ベリルが出かけるとさっそくアリスン・グラントというニュージーランド出身の恋人を作ってしまった。実はウェイリーもベリル同様、堅苦しい、一対一の男女関係には疑問を持っていたのである。というよりも、それはブルームズベリー・グループを中心とする、当時の若い知識人や芸術家の共通認識でもあった。永くつづいたヴィクトリア朝の抑圧的な思想も、産業と戦争に没頭する新時代の価値観も、彼らには納得が行かなかった。芸術を愛し、恋を楽しみ、人生を謳歌することこそ彼らの理想であったろう。『源氏物語』をはじめとする平安朝の文学が彼らを虜にしたのには、そういう事情も大いに絡んでいるのである。

微妙な三角関係は永く続いた。1960年になると、老いてきたベリルとウェイリーは身のまわりの世話をしてもらうため、なんとアリスンを自宅に住まわせた。そしてベリルが八十二歳で没したあとは、水入らずの生活を送るようになる。これには世間からの批判もあったが、耳を貸すウェイリーでもない。それでも1966年、ウェイリーが死ぬ一月前に二人はひっそり入籍したというのだから、何とも人間らしいではないか。

ベリル・ド・ゼーテは、ルー・ザロメに比べればまだ可愛らしく思えなくもない。いずれにせよこの二人、そして他にも存在する多くの「反ミューズ」たちは、自らを封じ込めようとする社会と懸命に戦い抜いた女性たちなのである。これを男性中心の世界との格闘である、と一言で片づけてしまっては当を得ない。彼女たちは男になろうとしたわけでも、男女の差を埋めようとしたわけでもない。彼女たちはあくまでも女性として、自分らしく生きたのである。