悲しき予言者、クレー

あと五分ほどで終了する東京国立近代美術館の展覧会「パウル・クレー おわらないアトリエ」の目玉の一つである「花ひらいて」を観たとき、すぐさまジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの『千のプラトー』を思い出した。べつに彼らの思想にかぶれているわけではない。河出文庫版に目を通したばかりだったのだ。

「花ひらいて」1934年

「花ひらいて」1934年

『千のプラトー』は親切な書物ではないが、序章の「リゾーム」さえ覚えておけば何ということもない。つまりは樹木モデルに対する根茎モデルであって、そこには絶対的な存在などなく、思想には始まりも中心も終りもなく、ただ遊牧民の生活のような、滑走する営為があるのみだ。もともとこの書物はデカルト以来の思想体系のあり方に待ったをかけるものだから、すでにリゾーム的な東洋で何千年も生きて来たわれわれには、本当はもっとすんなり理解されていい概念である。

この書物には各章の扉に図版がある。パウル・クレーも一度登場していて、カオスと秩序の問題などを扱う第11章「リトルネロについて」に、「さえずる機械」という作品が掲載されている。(これも、まさに Twitter ではないかと思うと非常に興味深いのだが、ここでは措こう。)問題は第14章の「平滑と条理」だ。この章の扉はとあるキルトの作品である。そして、ここにこそ、クレーの「花ひらいて」を用いるべきだったと思うのだ。

この章で扱われるのは、テクストは織物であるというあのお馴染みの命題である。垂直の糸と水平の糸、固定された糸と自由な糸が織りなすテクスト。クリステヴァは間テクスト性の説明に際して「あらゆるテクストは引用の織物である」と言い、バルトはテクストの語源としてのテキスタイルに固執した。しかしドゥルーズとガタリは何よりパッチワークを好む。刺繍と違い、パッチワークには始まりも中心も終りもなく、それはどのようにも展開してゆくことができる。ここで「花ひらいて」をもう一度見てほしい。布地のように見える絵の具は様々な色彩と領域で気ままに結びつき、規則性を見つけようにも、それはすぐさま遊戯と化してしまう。言ってみればパッチワークという織物が、絵画というテクストでその本領を発揮しているわけだ。

パッチワークという「果てしないパズル」は、さらにキルティングとして間に詰物が入ることで「表も裏もなくなる」、と二人の思想家はつづける。では「花ひらいて」はどうか。そう、この作品の反対側には、確かにもう一つの作品があるのだ。「無題」とされるその作品は、べつに「裏」ではない。

「無題」

「無題」

もうお気づきだろうか。リゾーム的な図像である「花ひらいて」の反対側に描かれているのは他ならぬ樹木のイメージなのである。だがそれは必ずしもリゾームの対極としての樹木ではあるまい。迷路のようにも、地図のようにも見えるこのイメージは、「樹」として反対側の「花」とつながっており、なおかつ一枚のカンバスの両側で空間的にも結びついている。この作品が樹木に対する根茎の勝利を記念していると言ったら言い過ぎだろうか。

クレーはまさかこんな読みを期待してこの作品を制作したわけではないだろう。だが彼が遊牧民的な人物であったことは間違いない。授業中のノートの落書きから出発し、音楽とのあいだで踏み惑い、自分には色彩感覚が欠落していると悩み続けた大いなる悲観主義者。彼が安息を見出した抽象の世界は、胸に刺さるような予言に満ちている。これもそのほんの一例に過ぎない。