アラステア、空虚なる喧騒

好事家の諸兄なら、アラステアの名は当然ご存知のことと思う。ところが一般的には、彼はまだまだ「知る人ぞ知る」画家の範疇にあるようだ。不注意な者にかかれば、せっかく彼の作品を引用してもビアズリーの物と勘違いされてしまいかねない。そこでひとつ駄文を書いておけば、誰かのお役に立たないとも限らないだろう。

アラステアは1887年、ドイツ南部のカールスルーエに生れた。本名はハンス=ヘニング・フォン・フォクト。裕福な環境の恩恵を最大限に受け、スウェーデンで語学と音楽の徹底した教育を授けられ、パントマイムの心得まであったという。だが時あたかも世紀末、彼は身につけた知性をひたすら爛熟した頽廃芸術の解読に用いたのだった。オスカー・ワイルドに永遠の憧れを、ボードレールに情熱を、ヴェデキントに畏怖を覚えた彼は、自らもそちら側の人間になることをひそかに決意する。その後マールブルク大学で哲学を、また教室で美術を学んだが、それは退屈でしかなかった。

1926年、最盛期のアラステア。中山岩太撮影

1926年、最盛期のアラステア。中山岩太撮影

そして1911年にプロイセンの中将だった父が、1913年にその後添えだった母が死ぬと、彼は実家と縁を切り流浪の身となる。名前はアラステアに変わっていた。この名前、実は「アレキサンダー」の転訛でしかないが、彼にとってはゼウスとデーモンの変名であり、「堕ちた星」を意味する暗号であった。人に問われれば実の両親は養父母に格下げされ、バヴァリア皇子やエドワード七世こそが本当の父であり、自分は出生を隠すためにドイツにやられたのだという秘密が明かされた。方々のサロンに出没して挿絵を描き散らし、舞踏を披露し、ピアノを鳴らすアラステアは歓迎され、女たちは彼に秋波を送った。彼は女たちに花を贈り、召使いには気前よく心づけを与えたが、その費用はパトロンから搾り取った金でまかなっていた。一流のホテルの客室を彼は花で飾っていたが、宿代を払う当てなどない。居づらくなると、彼はつぎのサロンを目指して姿を消した。

こんな破天荒な振る舞いも才能によって許された。やがて詩人ガブリエル・ダヌンツィオ、大女優サラ・ベルナール、レビューの女王ミスタンゲットが彼の交友関係をいっそう華やかなものにした。作家のアンドレ・ジェルマンは、この先も経済面で永く彼を支えることになる。そんな彼に目をつけたのが編集者ジョン・レインである。レインといえば雑誌「イエロー・ブック」でオーブリー・ビアズリーを世に出した人物だ。そしてビアズリーこそアラステアに直接的な影響を与えた数少ない画家の一人であり、ワイルドの『サロメ』の挿絵を描いた画家でもある。そこでレインは今度はアラステアにワイルドの『スフィンクス』の挿絵を描かせ、これと合わせて初の個人画集も上梓することにした。結局、戦争のために前者は1920年まで日の目を見ることはなかったが、後者は1914年に出版されるや、いよいよベル・エポックの住人たちにアラステアの名を知らしめることとなった。

ところでアラステアは確かにビアズリーを通過した画家だが、決してその亜流ではない。ビアズリーが線の画家、躍動の画家ならば、アラステアは点の画家、蠕動の画家であった。赤と黒で描かれるアラステアの世界は、ビアズリーの世界よりもさらに病的で、複雑怪奇である。それはまさにアメリカで間もなく始まるジャズ・エイジを予告してもいる。大量の情報が飛びかう破廉恥なその時代、欲望が機械化されたその時代に、アラステアの作風は見事に当てはまる。またアラステアが決して画家を自認していなかったこともこの見方に一致するだろう。なるほどビアズリーも『ウェヌスとタンホイザーの物語』を書いているが、アラステアも後に複数の文章を発表することになるし、何より彼は歌と踊りの名手でもあった。アラステアを「遅れてきた世紀末の画家」などと称するのはあまりに短絡的である。

ヘロデ王。『サロメ』より

ヘロデ王。『サロメ』より

要するにアラステアはダンディーであった。本人に言わせれば、おそらく「最後のダンディー」であった。実際、彼の生涯はボー・ブランメルによく似ている。ダンディーは放浪を強いられ、借金に追われ、パトロンに見放されれば朽ち果てるしかない。しかしアラステアはしぶとく生き残ることになる。

人に媚びることができず、相手が自分の期待を裏切れば自殺に追い込むほどの冷酷さを発揮するアラステアは、すんなりと仕事を積み重ねることはできなかったが、それでも一部の熱狂的な支持に支えられ、自分が愛する作家たちの作品に挿絵をつけるとともに、独自の制作や詩の執筆も行った。そして1925年からニューヨーク、ロンドン、パリでの個展が実現する。このパリの個展で彼に魂を奪われた一組の夫婦がいた。J・P・モルガンを一族に持つ富豪にして、あらんかぎりの頽廃に溺れるハリー・クロスビーと、その妻カレスである。酒とアヘン、少年や幼女との交歓を愛したこの夫妻について、あまり具体的なことを書くのは憚られる。ひとまず夫妻の愛犬の名が「クリトリス」であったことを挙げ、あとは推していただくとしよう。

アラステアは彼らとの出会いを決して無駄にしなかった。半ば彼のための出版社が夫妻によってパリに設立され、そこから詩集『赤い骸骨』をはじめ、ポーやワイルドの挿絵本が矢継早に世に出た。だが、すでにお察しの通り、このような関係が永く続くはずもない。ハリーに友情以上の気持を持っていたアラステアは相手の思想まで束縛するようになり、1929年、疲れたハリーはより前衛的な文学者を求めて去って行く。もっともハリーはその年のうちに愛人の一人を殺し、自らも自殺するという華々しい最期を遂げているので、いずれにせよ薄い縁であった。妻のカレスとの商売抜きの静かな友情は続いたので、それがまだしもの救いと言えるかもしれない。

ボードレール像。『赤い骸骨』より

ボードレール像。『赤い骸骨』より

 

さてその後アラステアはまたしても放浪の旅を続けた。もはや大々的に表舞台に立つことはなかったが、最後まで泊まる場所があり、食いつなぐことができ、晩年には再び展覧会を開く機会にまで恵まれたことは、「堕ちた星」たるダンディーにふさわしい強運であろう。ビアズリーは二十五歳で早世し、ボー・ブランメルは六十二歳で寂しく死んだ。一方アラステアは八十二歳まで生き延び、ドキュメンタリー番組にまで出演しているのである。どうやら運命は見事に彼の術中にはまってしまったようだ。

なおアラステアの画集としては生田耕作と平田雅樹の編集による奢灞都館のものが日本ではほとんど唯一のようで、この記事でも大いに参考にさせていただいた。この奢灞都館は、アラステアの挿絵入りのワイルド『サロメ』刊行によって、アラステア再評価の糸口を世界に先駆けてつくった出版社であることも一言しておこう。ちなみに上製本は限定1350部で、すこし前まで美術系の書店には当り前のように置いてあったが、近頃では高値がつきはじめているようだ。