鏡よ鏡、鏡さん

鏡に魅せられ、騙され、異世界へと送り出された人々の挿話を、私たちは有史以前から蓄積している。乳幼児が苦もなく通過する鏡像の自己認知の段階に永遠に囚われてしまったナルキッソスや、白雪姫よりも美しくありたいと念じつづけてやがて敗れる王妃は、ほんの氷山の一角に過ぎない。

サルヴァドール・ダリ「ナルキッソスの変容」1937年

サルヴァドール・ダリ「ナルキッソスの変容」1937年

しかし見る者の姿を映すのは、鏡の機能の一つの側面でしかない。鏡像はすなわち虚像であり、また見方を変えれば、虚構の世界に生きる私たちに真実をつきつけるものでもある。中世において鏡は、過去・現在・未来を如実に映し出す、いわば有機的な百科事典とも目されていた。これは何も迷信ではない。事実、二十世紀も半ばになってから発展する構造主義的な理論の世界においては、言葉もまた鏡に近いものとして捉えられている。ソシュールの言語学以降、言葉は対象との一対一の関係をやめ、より柔軟な意味の発生と解釈の自由を許容するようになった。もちろん、言葉とは最初からそのようなものだったわけだが、数千年を費やしてようやく理論がそれを説明できるようになったのである。

そしてこれは西洋にかぎった話ではない。仏教における鏡もまた万能であり、それをテクストとして具現化したものがいわゆる「四鏡」である。『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』はそれぞれ過去の作品を意識しながら、過去の歴史を物語の枠のなかに閉じ込め、来るべき世界へと思いを馳せる。それはいわゆる歴史書とは別物である。日本語の鏡は「影見」の転とも言われ、影は今日で言う「陰」であると共に「光」でもある。「四鏡」に記録されるのは単純な出来事ではなく、それぞれの時代の雰囲気、そこに生きた人々のまなざしなのだ。

このような語り口の物語を西洋で探すとなると、やはりプルーストの『失われた時を求めて』ということになるだろう。この作品と日本古典文学との共通点はつとに指摘されていることなので繰り返さない。とにかくこの膨大な小説も「時」のなかで何が起こったかではなく、「時」がどのように流れ、何がその流れをもたらしたかということの探求なのである。

プルーストの偉業から半世紀、アメリカではカポーティが十年以上の時間を費やしながら、未完の遺作となる『叶えられた祈り』を執筆していた。現代のアメリカに『失われた時を求めて』を再現させるというこの試みは、失敗に終わったという意見も多い。だがほとんど飲酒と性行為の積み重ねに始終するこの小説は、確かにカポーティの鏡に映った当時のアメリカ社交界の姿なのであり、その意味では、書き出された時点で、彼の目論見は成功していたと言わざるを得ない。十九世紀のフランスと二十世紀のアメリカでは、「時」の流れはあまりにも違うのだ。『冷血』のあとに長編を書くとすれば、これ以外の選択肢はなかっただろう。