騎士になりたい

1972年の映画「ラ・マンチャの男」は、原作『ドン・キホーテ』の主題の一端を実に明確に切り取っている。下敷きになっているのはデイル・ワッサーマンの同名ミュージカルで、映画の脚本を手がけたのもワッサーマン自身である。ドン・キホーテの冒険を、作者であるセルバンテスが獄中で演じる演劇に置き換えることで、狂気に取り憑かれてはじめて自由な騎士となったドン・キホーテの姿がいよいよ真に迫る。

セルバンテスとドン・キホーテを見事に演じたピーター・オトゥールは、実質的な映画デビュー作である「アラビアのロレンス」のときからすでに、狂気に飾られた冒険者であった。それは澁澤龍彦も好きな映画として挙げている「将軍たちの夜」の主人公、タンツ将軍の場合も同様である。オトゥールと言えば八度もアカデミー賞にノミネートされながら無冠であることは有名だが、このエピソードなども狂気の冒険者に相応しい気がしてしまう。

ここまでの文脈でやはり挙げておきたいのは1966年の映画「まぼろしの市街戦」である。解放寸前の北フランスの村に送り込まれたプランビック二等兵。彼はもぬけの空になった村に躍り出た精神病院の患者たちと時を共有するうち、いつしか自由な精神の虜となる。正常な精神を持ったドイツ軍とイギリス軍が相撃ちで全滅するのを見届けた彼が選んだのは、患者たちとともに病院で暮らすことであった。そこでは先程まで公爵や主教や娼婦になりきっていた患者たちが元のお仕着せをまとっているが、ある患者は真顔でこう言う。「窓があればそれでいい」。

十六世紀後半に描かれたヴェロネーゼの「聖ヘレナの夢」にも、窓が登場する。この聖女もまた、ただ敬虔な信者であるというだけでは説明のつかない現象の実現を窓というトンネルに託している。彼女は眠っているが、いまにも天使に誘われて窓の向うへ飛んで行ってしまいそうだ。反対に、安楽死を描いた2004年の映画「海を飛ぶ夢」では、首から下の麻痺した主人公ラモンが、窓から空へ飛び立つ夢想により正気を保つ様が描かれている。彼はできるなら窓から飛び降りて死ぬことを願うのだが、彼の生きる現実世界の価値観がそれを許さないのだ。

結局のところ、正常な人間であれば誰しも、正常でなくなることを望むのである。何しろ「正常」という概念がすでに異常なのであって、ドン・キホーテがくりかえし歌ったように「叶わぬ夢を夢みて、届かぬ星に手を伸ばす」ためには、どうしても騎士にならなければならないのだ。