ロリータ対ナオミ

ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』のロリータと、谷崎潤一郎『痴人の愛』のナオミ。似て非なる二人の女について一考する。

ウラジミール・ナボコフ

ウラジミール・ナボコフ

ロリータもナオミも、それぞれの小説の主人公が一人称で見つめる対象であるという点では共通している。読者が発見する二人の女は、ハンバート・ハンバートと河合譲治の目が捉えた女である。けれどもここには大きな差異もある。ロリータが「ハンバート・ハンバート」という偽名を名乗る男に愛された架空の女であるのに対して、ナオミは実在の男が愛した実在の女である、という点だ。

ロリータがなぜ架空かと言えば、それは彼女の本名がドローレス・ヘイズで、ロリータとはハンバートが追い求めた美しい思春期の娘=ニンフェットを代表する少女、ドローレスに与えられた仮の名前だからである。ドローレスがつまらないアメリカの田舎娘に過ぎないことを、ヨーロッパを遍歴した教養ある学者ハンバートはよく知っていた。しかしドローレスは彼の初恋の娘に似ていたのだ。

一方のナオミは、本名も奈緒美である。西洋に卑屈に憧れる譲治にとって、ナオミは自分の金で買える西洋であった。やがて奔放な地を出したナオミは、先端的な美意識を開花させる。大正後期でも洋装の婦人は1%未満。そんな中でナオミが見せる和洋折衷の奇抜なファッションや化粧は、当時ようやく誕生しつつあったモガの枠を大きく越えていた。

つまり『ロリータ』ではつまらない女と非凡な男が、『痴人の愛』では非凡な女とつまらない男が、それぞれに破滅的な恋愛をするわけである。そしてハンバートが愛を失い、妄想のうちに獄死するのに対して、譲治はナオミの下僕として、夫の地位を守り抜いて幸福をつかむ。ハンバートと譲治は、決してお互いを羨んだりしないだろう。

ロリータとナオミは、共にすぐさま外の世界に生れ変わった。ロリータ・コンプレックス、ナオミズムなどの言葉について、いまさら蛇足を付け加える必要はないだろう。むしろ最後に、作者にも目を向けてみるべきである。

ナボコフはこの小説を英語で書いた。ロシア人の彼にとってそれは外国語であると同時に、幼少期から親しんでいる言語でもあった。それよりも問題はその英語を、『ロリータ』執筆の十年ほどまえに移住したアメリカという舞台で生かすことであったろう。その作業を乗り越えるために必要だったものが言葉遊びという言語的な「飛躍」だったのであり、そもそも『ロリータ』は言語遊戯のための小説であると言ってもいい。対して谷崎は、この小説を関西に移住してから書いた。小説の舞台は関東であるが、日本的なもの、伝統的なものへの回帰を始めつつあった谷崎が、それまで迷走していた自分の西洋趣味を、この小説で清算しているという見方も成り立つだろう。そのような対象との距離が、この小説を優れたものにしているのだ。

作家であり、文学、言語、昆虫学の学者であり、妻の運転する自動車で蝶の採集を行いながら作品を書いたナボコフはチェス狂いでもあった。谷崎は作家で映画人で、異郷への憧れを美食と自由恋愛で満たした。そんな作者たちの性質をも考慮すれば、結局ロリータとナオミの違いは「病垂れ」の有無に還元することができるのかもしれない。ロリータは「知」の女であり、ナオミは「痴」の女である、と。