見ろ、聞け、味わえ、触れ、そして嗅げ

科学的思考の発展は自然を記号に分類し、われわれの書斎の本棚にきれいに整理してしまった。それは非常に有益なことであるが、一方でわれわれの考え方を近視眼的に制限してしまう諸刃の剣でもある。科学を極端にまで突き進めたときに浮かび上がる光景が、実は古来の神話と有機的に結びついていることは、冷静に見れば誰にも明らかなはずだ。それを忘れることだけは避けなければならない。

たとえば五感というものがある。視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚のことで、これを司る目、鼻、耳、舌、皮膚を五官という。ここまでは当り前だが、「五官」という語が仏教の「五根」から出ていることはないがしろにされているのではないか。五つの根っこというからには、その頂点には人間がいるわけだ。つまり五つの根っこは独立しているけれど、ある点で一つに結びついているのである。近代科学はここを忘れている。あたかも五つの感覚を、まるで別個の感覚のように扱っているきらいがある。

この流れに逆らったのがボードレールである。彼の有名な「万物照応」では、視覚や嗅覚、聴覚が何のためらいもなく同時に発露している。本人の意識はともかく、これにランボーやホーフマンスタール、リルケが同調したことで、現代文学は準備されたのだという見方も成り立つ。絵画の世界で言えば、モネがひたすら積み藁を描き、ゴッホがただ黄色い絵の具を使うためにひまわりを描いたことで、表現主義が可能になったのと同じことである。

五感を自由に使うのは人間として当り前のことだ。一台の自動車からはエンジン音が聞えるのと同時に車体の色が見えるし、シートに腰掛ければ手触りは滑らかで、革のにおいがする。それに気まぐれにボディーをなめれば、きっと鉄臭ささが口腔に広がるだろう。こんな当り前のことが、いざ人工的な表現となると難しくなってしまうのは、そもそも人間が自然に理性で対峙する不自然な動物だからに他ならない。

グルヌイユを演じるベン・ウィショー 「パフューム ある人殺しの物語」より

グルヌイユを演じるベン・ウィショー 「パフューム ある人殺しの物語」より

パトリック・ジュースキントの『香水』は、そんな文脈のなかで独特の面白さを持っている。2006年の原作に忠実な映画化でご存知の向きも多いかと思うが、この作品の真価は原作を読まなければわからない。何故ならこの作品は、活字を目で追うという視覚的な媒体である書物を通して、直接に読者の嗅覚を刺激するからである。読者は作中で紹介される香りが知っているものであれば記憶を辿ってそれを再現し、未知のものであれば想像で補う。嗅覚なしに『香水』を読むことは不可能である。

ティム・バートンの「チャーリーとチョコレート工場」が公開されたとき、一部の劇場ではチョコレートのアロマを撒布していた。ここでも観客は嗅覚の助けを借りて、全編チョコレートだらけのこの作品にどっぷり浸ったわけである。劇場の演出もなかなか気が利いているが、機転のきく観客は自分でチョコレートを用意していたと思う。

古来より、香りは実体がないがゆえにある特殊な地位を与えられていたと考えることもできる。洋の東西を問わず貴族は希少な香りで周囲の人間を魅了した。ヤコブスの『黄金伝説』によれば、多くの聖人は命を落とした瞬間、えも言われぬ馥郁たる香りを発したという。日本でも、やんごとない男女が着物や装飾品に香をたきしめたことはよく知られている。なかでも平安貴族の香りによるコミュニケーションは発展をきわめ、源氏物語を下敷きにした源氏香という遊びが誕生している。これは非常に洗練された視覚デザインと香りのパズルである。